トリノ五輪開幕

眠い眼をこすりながら開会式を見た。
さすがフィアットの街、トリノ。鉄と炎という演出だったように思う。
かっこうよかったのは、火を噴くスケーター。あれ、インラインローラーだったね。やっぱり、あれもティフォシの色。そう思っていたら、会場でF−1が組み上げられて(当然、フェラーリパイロットは不明。コクピットの画像には見慣れたフェラーリのステアリング)、そのまま走り出す。中央で白煙を上げてスピンターン。こうでなくっちゃ。
お昼には、ユベントスデルピエロ聖火ランナーをしていたそうで、地元の重いのようなものが反映されるのがオリンピック。しかも、オリンピックは都市の実行委員会が開催するので、国ではなく地域の姿が見られる。長野の時には、ゲームの開始を告げる木遣りの声に感動した。ああいうセンスが、例えば、ボクが住んでいる県にはないんだよね。田舎で食わされる洒落たようなフランス料理みたいなのだ。そこにあるものをその土地のやり方で提供してくれれば一番力のあるものになる。あの木遣りには、信州にくらす人々が綿々とずっと以前からの時間を抱えたままで生き方の誇りを保っている様子がわかり、そのことに涙した。(実は、こうして書いている今も涙があふれる)何よりも、よさこいソーランみたいに現代風にアレンジしてかっこういいと思っているチャラけた思想ではなく、そのまま、もしかしたら今は失われつつあるものまでそこで再現してしまおうとする強い意志が見えたのだ。
いきなり、会場にオノ・ヨーコが現れる。レノンのことばを伝える。そして、会場に、ピーター・ガブリエル。イマジンを歌い始めた。イタリアの会場に、イギリス人の残した歌。平和へのメッセージが、未だにこの形でしか表せないのかと思いながらも、思いには揺さぶられる。
いよいよ、聖火ランナー。噂の出ていたソフィア・ローレン五輪旗で登場。前回のソルトレークでは、船木が持っていたな。女性ばかりの五輪旗が、アルプスの警備隊にわたされる。これは素晴らしい光景だった。そういうことなんだよ、五輪を開催するっていうのは。市井の一市民からスターまで、だれもがこの舞台を支える役割として等質なんだ。それゆえに平和の祭典と呼ばれなくてはならない。
会場に現れたのは、いきなり、トンバ。華があるなあ。そして、クロスカントリースキーイタリアチーム。日本ではなかなか取り上げられないが、クロスカントリーのリレーはまさしく国の誇りをかけての戦い。リレハンメルの地元ノルウェーとのゴール前までもつれる死闘は、オリンピックの最大の見せ場のひとつだった。まさに、足幅1本の差。
ケルトンの越が、世界選手権は競技別の大会。一方、五輪はいろいろな競技の人々が集まる。これは祭りだと言っていた。スポーツの祭典であって、スキーの、スケートの、ソリの祭典ではないのだ。五輪で勝つのは特別というのはそういうことなのだろう。そこには、その競技の勝者より、アスリートとしての矜持を高めるものになるのだろう。
トンバからピエロ・グロス!何てこった。グロス、トエニ、オーストリアの滑降王クランマー、若き天才ステンマルクという80年前後のスキーを彩った一人。中学生だったボクらは、強かったトエニも好きだったが、グロスの奔放な明るい勝ち方がみんな好きだった。まだ、W杯が加点方式だった頃で、スペシャリストの時代が全盛を迎えようとしていた。
そして、コンパニョーニ。この人ほど強いという印象を与えたアルペンスラローマーは知らない。長野で確か2冠。確実に、だれかよりも速い。圧倒的にではなく、必ずいくぶん速い。そんな人を強いと感じた。
最後は、ステファーニア・ベルモンド。地元、トリノ出身らしい。日本人は拍子抜けだったかな。激しく燃え上がって夜空を染めた。
会場がパパロッティの歌声になったところで、BSハイビジョンが中継終了。おいおい。
ところで、今回のトリノに少々引き気味なのは報道にある。例えば、世界陸上なんかだったら世界一速いのは誰だ!などといって100mの分析なんかをやっている。今回は、日本人がらみの報道が多すぎる。実際、いろんなドラマを抱えた連中が多すぎるくらい多くて、そのせいで、そんな裏側を大きく取り上げやすい環境がある。しかし、ボクはもっともっとスポーツをクローズアップして欲しいのだ。始まってみると少し変わるのだと期待したい。
今回は、憧れの山中茂先生がアルペンの監督として参加している。クロスカントリースキーには今井が出ているし、国体でボクの目の前を駆け抜けた高橋大斗小林範仁もいる。何だか、そういう意味でも気持ちを寄せる部分があるにはある。が、見たいのは超人の姿だ。たくましく、こころとからだを融合させて何かを乗り越えていくアスリートの姿だ。