荒川静香の帰国

荒川静香の金メダルの瞬間を見ていたとき、最も印象的だったのは、これまでの多くの金メダリストと異なり、泣き崩れなかったことだ。周りが感激に涙しているなかで彼女は爽やかな笑顔を浮かべていた。
彼女は日本など背負っていなかったのだなとはっきりと確信できた。自分の競技者としての満足、フィギュアの場合にはアスリートというには少し違う価値に覆われていると思うのだが、そうしたものに支配されている強い意志を見たように思った。
演技の方はわからない。ボクはどうにも採点競技が苦手で、ジャッジがどう取るのか想像も付かないので、まあ、美しくはあるが、それでどうしたというものであった。エキシビジョンでも退屈なクラシックに乗せた安直なバレエのような踊りばかり。あのアルベールビルで、フィギュアにスポーツを持ち込んだと形容された伊藤みどりの功績も、今はない。
日本中の感動とやらに迂遠な場所で成立していた荒川が急激に感動と興奮の安売りに遭遇したのが成田である。日本唯一の金メダルだろうが10個めだろうが本人には違いはないのに、時の人に群がるモノフォリストたちが賑やかに騒いでいる。
当然、荒川には違和感がある。帰国直後の記者会見で、旅立つときと全く違う様子に金メダル一つがもたらす価値観の相違、いや、むしろ、自分では自分を示しただけで、それに金メダルが付随したわけで、内実は何も変わっていないと思えば思うほど待遇の差が奇妙に思えてくる。
上村愛子は、長野を振り返って、大会の前にはそれなりに愛子ちゃん、愛子ちゃんと呼ばれたのに、里谷が金メダルを獲ってしまうと話題はそっちに向かってしまい、取り残されたように思えたと言っていたらしい。自分は変わっていない。ただ、競技だけに順位は付いて回る。その順位で人格とか、人間的な価値までが上下するように思えたのだろう。
荒川は、その渦中にある。よい方に出ている目であるが、その目が逆に出てしまうとどういう扱いになるのかをよく知っているはずだけに、この渦の中心部に潜む闇を凝視し切れていない。
長野でのカーリングの快進撃を忘れて、感激しただの、こんな素晴らしい競技はないだの絶賛する人々は、きっと長野の金メダルでカーリングなど隠していたに違いない。メダルが少ない分だけ注目を集めたカーリングも、その上げ底と、ワールドカップが近づく、いや、WBCで多くを忘却してしまうに違いない。
栄光も挫折も感動も興奮も、ここでは消費されつくしていく。もともと、そんなものはシミュラークルな現在なのだ。