投書欄2題「ばんえい競馬の馬がかわいそう」「けたぐり」と美学
いつものことながら投書欄には、投書した人の勢いというのかエネルギーというのか熱気というのか、そういうのがあって、論理的であってもなかなかに一方的な展開と主張があって興味深い。議論になんかなりそうもないのだが、本人が万機公論に決すべきと考えていて、また、新聞的な権威で掲載によって一定の評価を求めている欲も見られておもしろい。VOW!でもボクは投書ものがとても好きであった。
昨日の朝刊なのだが、おもしろいのが2件もあって楽しめた。
その前の週には、昔いじめっ子だった人が同級会にやってきたのだが、万座の冷たい目に耐えきれずいつの間にか会場から姿を消していたという投書があった。要は、人生の一舞台でそういうことをすると、因果応報、いつかは自分に返ってくるよという意味のたしなめ方で、その方の60代という年齢にいっそ愕然とした。「いじめっ子」の人が何を求めて同級会やってきたのかの想像力を全く失っていて、ま、いじめにきたのかとでも言いたげな視線で見つめられていて、人間こうやって更正の機会を与えられないと社会はどんどん辛くなっていくものだなというオチを期待したボクには、つくづく、世間が人を追いつめると感じさせられた。これには、もうひと展開あるかなと思わせたが、そこまでだったようだ。
今回紹介するのは、反応のあったもの。ばんえい競馬が終わってしまったのだが、やはり60才代の女性がばんえい競馬の馬は鞭でたたかれてとてもかわいそうで、自発的に走るようなやり方はないものかと書いていた。それの反応が昨日の朝刊に載っていて、ばんえいではないが、馬方に鞭打って荷物を引く馬の悲しげな姿が忘れられなくて、「
ばんえい競馬の廃止に賛成です。なぜなら、残酷だからです。重すぎる荷物を引いて、ムチで叩かれて、あえぎあえぎ坂を上る馬の姿に悲しみを憶えます。」
と書く。50代の女性である。
わからんのは、馬を使役することが残酷だと言っているのかどうかである。ばんえい競馬は、馬方の技術を競う集まりが競馬の様式を取り始めたわけで、つながりが深いことは言うまでもない。しかし、馬方の使役が残酷であったかというと、どうなのだろう。馬はトラクターであり、動力であった。生き物を使役することが残酷であれば、この社会は成り立っていない。無理をさせることを残酷というのなら、茶化してこんな文章を作ってみた。
女子マラソンの廃止に賛成です。なぜなら残酷だからです。重すぎる(スポンサー)の責任を背負って、(節操のない大衆の)声援に叩かれて、あえぎあえぎ走る選手の姿に悲しみを憶えます。
投書なんかをこうやってからかってはいけないのだが、何となく書いておこうと。暇なのかな。
次。「けたぐり」。
横綱が稀勢の里戦でけたぐりを見せた。これが、横審で話題になった。けたぐりなんて横綱の技じゃないだろう。ましてや、常勝横綱と次世代のスター候補、稀勢の里である。けたぐりは、力の劣るものが地力に勝る相手にみせる奇襲である。終盤に差し掛かった取り組みで、今まさに日の出の勢いでのし上がってきた力士が、盤石の取り口を見せる大横綱に仕掛ける技である。立ち会いの変化は踏み込みのよい力士には通用しない。八艘飛びなどは自爆覚悟の荒技、見せ技で、そもそも結びに出てくるようなものではない。そのような、乾坤一擲、起死回生、一分の勝機をつかむ技であって、横綱がやるようなものではない。
しかし、秋場所に負けていた横綱は、「どうしても勝ちたい」としてこの技を格下の相手に放った。星は拾ったが、相撲的には負けである。胸を出して堂々と自分の相撲で負けを跳ね返してやらねばならない。横綱の相撲が奇襲だらけの、栃赤城のようなサーカス相撲ならいいが、そうではない、組み止めてのそっこうが身上である。その形で勝たなければ、何が相撲なのか。横審はそれを言っている。小橋が志賀健太郎にスモールパッケージホールドで勝つようなものである。丸藤なら、ある。それがスタイルだからだ。それを咎めている。
これに関して言えば、ライブドアPJオピニオンにも関連記事がある。
横綱審議委員の中に競技スポーツ経験者は居ないのだろうか。彼らはいったい今まで、相撲の何を見てきたのか正直疑問である。出会い頭にけたぐりを決めるには、相手の呼吸、タイミングを読むだけの技量が無いと不可能だ。朝青龍がここまで磨き上げた技術の一端が見られたのだ、素直に称賛するべきではなかったのか。また、まともに相撲を取っても強いからこそ奇襲が生きるのではないだろうか。
この人も変だ。「できること」と「やること」には大きな違いがある。技術の成果をお見せするのが相撲ではない。こういう連中をボクは「モノフォニスト」(単純主義者)として弾圧しようと思っているのだが、プロスポーツは矜持の世界なのだ。昨日、初優勝した浦和レッズのスタンドに「PRIDE OF URAWA」の文字が踊る。最下位だろうが、2部に落ちようが、それだけ失わない。戦略も変わるだろうし、戦術はゲームの中でも移ろう。しかし、浦和のサッカーをやりとげたい。それが、矜持である。プロスポーツが記録に留まらず、記憶に焼き付くのはそれゆえである。アマチュアスポーツは勝負にこだわる以外にない。そうしたものをスポーツと呼んでいる。プロスポーツは、そこから先に描く世界がある。
今年の甲子園の決勝で、何が感動を与えたのかというと、最後の1球で147キロのストレートを投げる斎藤と、そのボールをくそ思い切り振りきる田中である。勝負を超えたプライドの戦いの美しさがそこに見えたのだ。アマチュアスポーツはそうした光景をドキュメントとして描き出す。プロは違う。常にそうしたものを求められている。その風景を描けないものは、プロとしての一流には到達し得ない。
ゆえに、横綱のけたぐり、しかも、優勝争いにまだまだ無関係な時期で、一度負けている格下の相手にどうしても勝ちたいからとかますものではなく、それで全勝優勝しても、ちっとも美しくないのだ。
投書を忘れていた。60代の男性である。
面白いので引用する。
相撲には48手以上の技があり、土俵に上がった力士は、双方ともに真剣に、ありとあらゆる技を駆使して戦う。それが相撲の醍醐味ではないか。土俵の上では横綱も平幕もない。お互いが対等な対戦相手である。けたぐりがなぜ品格がないのだろうか。もし品格が無い技ならば、技の中から外し、禁じ手としなければならない。
このようなことも理解できない横審の品格を疑う。
こういう一生懸命な人が戦後社会を作ってきたのだと思うと感慨を禁じ得ない。もしかしたら、今、子どもたちをめぐる様々な問題は、この人が持っている奇妙な均等観に根ざしているのではないかとさえ思える。奇妙な均等観はしばしば嫉妬や妬みを生む。彼我にどんな違いがあるというのか同じ人間なのに、どうしてこうも違うのか。そうした思念は容易に不条理な関係を清算するために相手をおとしめる仕種に発展する。それは、流行のことばで言えば「いじめ」である。
細かくは突っ込むまい。「けたぐり」に品格がないと横審が言っているわけではない。「横綱のけたぐり」に品格がないと言っているので、それを理解できない投書者の○○を疑う(笑)からかっちゃいけないな。
この人、きっとプロレスは八百長とのたまう人の一人だろう。荒法師ジン・キニスキーは、どんな技でもできるけど、それはプロレスでないと言っている。使えるけれど、使わない。そうした王者の姿は、何でもありの安部政権と重なって、「美しい国」と呼ぶ国が、節操のない美学に支えられ、こうして世間の風潮さえ揺らがしてしまう情況を、少々知識人ぶって眺めている。