大田予想外

昨日の夜、「あるある大辞典」の代わりにやっている番組が点いていた。見ていたわけじゃない。何となく点いていたのだ。
そこで、阿川佐和子に促されて爆笑問題大田光が話したのが「予想」より大きな騒ぎになったという言い方だ。大田の言い方では、これまでに騒ぎが大きくなったことが予想外というニュアンス。阿川は少し意外な感じの表情。だって、人気番組のねつ造なのだから、それは大騒ぎで当たり前という感じ。大田の予想外ということば自体に違和感がある様子。
むーみん宮崎だったかな、誰かが引き合いに出したのは、朝日新聞の珊瑚削りイニシアルとTBSのオウム関連報道。いずれも「やらせ」というレベルで、今回のねつ造と根を同一にしているとの感触。何より、世間を騙したのだから、これは糾弾されるべきとの雰囲気は、この番組に限らずテレビ全体に満ちている。大田は、そのズレに、自分が鈍感になっているのか、感覚がおかしいのかとしきりに繰り返しているが、最後のことばを呑み込んでいるように思えてならなかった。
その最後のことばとは、おそらくこんなことだろう。
報道とバラエティの垣根が見えなくなっていることは事実だが、そもそもあの手のこれ見よがしな番組に対して視聴者がそこまでの信頼感や依存感をもっていたことが大田の予想外なのではないか。どうせこんなものいい加減なこと言っているだけだってという突き放した感覚をもちながら見ているんだと思っていたのだと思う。だから、大田はそうした視聴者の感覚に信頼をもちながら、ぎりぎりのところでおもしろがってみようとしていたわけだが、「あるある」のあれだけ雑な作りにそれだけの反響と反動があるということは、自分の番組でもどんな受け止められているのかわかったものではないという戸惑い。それが、予想を超えた反応なのではないのか。
テレビというメディアがそれだけまだ価値をもって捉えられていること、それを丸ごと受け止め、正義をもって断罪する人々が多数派であること。わかりきっているようなことが思いもかけない方向に転がっていくところに、大田はうろたえているように見えた。
みのもんたがこの間行政の無駄遣いをでかいボードでばんばん追及しているような番組をやっていた。あれも酷いものだ。あっさりとした機能中心の建物を造れば、行政は味も素っ気もないと言い切り、派手なものを作れば何だこれはとなって、程々にすれば中途半端と言われる。だったら、キャンペーンやプロパガンダ臭いものをすべてなくしてしまえばいいんだとどうして言えないのだろう。
前にも書いたのだが、夕張の成人は、成人式の補助金がもらえなかったという点において悲観的になることも同情することもない。彼らは彼らでやればいいのであって、それゆえ、補助金なのである。補助金は施しなのだ。なければ出さなくていい。必要なら行政が自らやればいいのだ。
議員宿舎だってそうなんだ。議員特権だって。彼らは、国権の最高機関たる国会で国民の主権を代表して執行する国会議員なのだから、特権くらいは当たり前だ。むしろ、不正蓄財などする必要がないくらいに財政環境を整えてやるくらいの感覚でもいいじゃないか。
印象的だったのは、知事の給与について、多くのテレビタレントが金額を過大に示していた。彼らがバラエティに出演するギャランティと比較してみるといい。飯島愛っていくらぐらいだろうと、不謹慎なことを書いて、書き殴りは終了。