今日も厳しい戦い

今夜の上原も凄かった。これを観るために金を払ってもいいとさえ思える。
この間、ふと気付いた。息子たちの野球にかかわっている人たちはやけに近所の選手に詳しい。どこそこの中学の子がどうした、高校の子がああしたなど、実に微細である。そのうち、ポジションがどうのこうのとなってくるから、かなり知っておられる様子。
一方、ボクは自分の息子くらいしか知らない。そもそも、質の高いプレイを目指す姿が見たいので、地元の高校がどうしたとか、どこかの選手がああしたなど、ほとんど興味がない。自分の息子ではなくても、高いプレイを目指す意志を見て楽しんでいる。
どうやらその違いは、ボクはプロ野球をかなりたくさん観ているということなのだ。ボクにとっての教科書はいつもプロ野球なのだが、実際にやっておられる人々は「基本」を口にする。その基本は、通常「基本」と思われている部分の基本であって、技術のファンダメンタルというわけではない。こうやればこうなるという提案の一側面として機能している部分で、実のところ、ではそのことで何が表現できるかについてはいささか無頓着で鈍感だ。
例えば、多くの野球人がツーシームとチェンジアップを同じ土俵で取り扱う。ツーシームは握り方であって、チェンジアップは球種である。いや、効果といってもよい。それゆえ、あたかも、スライダーという握りがあるかのような錯覚が生じる。スライダーという球道が現れるだけで、その握りはいかようにも、ある。
たまに、ボクがプロ野球の技術について、選手を引き合いに出すと、「それはプロの話」と切り替えされる。たまらない。あそこが究極ではないのか。プロの真似などと揶揄されるが、真似できるわけはない。しかし、そこに近づくことはできる。自分の体格に見合った、また、体の使い方が嗜好に合い、プレイの質感が近い選手の真似をして何がおかしい。それを表現しようとするなかでしか見付けられないものもある。しかし、プロの真似をするなど不遜とばかりに切り捨てられる。それでいて、わかったような指導めいた言説を振りまく。
多くの指導者は、何を目指せばいいのか、よくわからなくなっている。幸い、うちの子どもたちは高いプレイを目指すために何ものも惜しまないものを大切に指導された。巧拙ではない。結果でもない。どんなプレーヤーになりたいかを小学生時代に徹底された。故に、高い質をもつ相手選手を誹ることもなく、優れたプレイを見せるチームメイトをリスペクトしつつ競うのである。
有り難いことだ。