思い立って戸隠へ

1週間の疲れをどうやってとろうかと考えた。
朝9時まで惰眠。それで十分だろう。ぐずぐずしていてはいよいよ体が動かなくなる。
彼女が温泉に行きたいという。うまいものを食べたいともいう。どうせならあまり行ったことのない場所に行きたい。
ふと、思い立った。
うずら家にしよう。寒中のそばを味わうにしくはない。
そもそも、新そばばかりが愛でられるのをよしとはしない。寒の頃にこそソバは熟成する。この季節のそばが一番旨いのだとボクは思っているし、うずら家もそうであるに違いない。
ついでに、戸隠の森をスノーシューで歩こう。
11時少し前に出る。近くなったし、黒姫からの登り、新しいクルマでは何の苦もない。本当にありがたい足である。前のクルマにも何の不満もなかったが、年々歳を取ってくると、少しでも楽に運転できることがありがたくなる。気を張らないで済むのだ。
麓の集落から高度を上げると次第に戸隠らしくなるが、今日は暖かい方だろう。氷点下3度までしか下がらない。このあたりの除雪はとてもきれいで、1000湖ラリーのコースみたいにフラットになっている。気持ちよく走る。
奥社の入り口には何台ものクルマ。クロスカントリースキースノーシューレンタルの看板。そういう遊びもすっかり定着してきた。家族連れでスノーシューを楽しむ人も少なくない。
そのままとりあえず、うずら家へ。様子を見て、並ぶかどうかを決める。案の定、それなりにあふれている。が、彼女はそのまま店に行ってみようという。中社西口の駐車場に停めて参詣。正面の参道は積雪で通行止め。30度くらいの傾斜がある。迂回路から降りるとうずら屋の入り口が見える。お、2人くらいしか並んでいない。きっと、他の人は名前を書いてぶらぶらしているんだろうが、チャンスか。
わずかに5分ほど並んで店に通される。なるほど、座敷を所望の人が多いらしい。普通の入れ込みで十分なのですぐに店内に通される。草の子の亭主にそっくりの歯切れで話す、お茶のCMで有名になった店長さんが忙しく動く。
ボクはざるで、彼女は地鶏南蛮。そちらもおいしそうである。さっそく、お茶と薬味が出てきて、ボクは目白にかかる。辛さに芳香が漂う。たれを口に含む。ああ、鰹の香りがいい。しかし、何も尖っていない。もとより、口に含んでその成分が逐一わかるような代物は所詮混ぜものである。いくつかのものを合わせてそのどれでもない何かになることが必要だ。鰹の風味は、するが、鰹節ではない。紛れもなく、そばたれである。
そばを待つ時間も好きである。
草の子の亭主夫妻はここで修行した。埼玉に住んでいたお二人がこの雪深い場所で、懸命に働いていた姿を重ねる。ああ、それであんなに素直なそばが出せるのか。改めて草の子のそばが夫婦の馳走であることを思い知る。そばの技術ではなく、そうした蕎麦屋の心が伝わっていることに感激。
やがて、ざるからやってくる。笊にぽっち盛りがあしらわれている。薬味を少しだけ使って、そばをたぐる。こみ上げてきた。なぜかはわからぬが、ボクは泣いてしまった。ありがたきそば。何というそばなのだろう。うまい、好き、そんなことなど露もなく、うずら家のそばである。あるいは、さきほど、草の子の夫婦を思っていたからか、ボクは泣きそうになったのではなく、泣いてしまった。
仕上げのそば湯も丁寧にいただいた。この甘み。寒にしか味わえない。目白と相まって、素朴な豊饒を伝える。最後の1滴まで味わって飲み尽くす。
彼女の地鶏南蛮も少しいただいた。かしわが何ともよい加減で歯ごたえと風味がある。
さっきのそば湯の感覚が一旦変わってしまったので、もう一度そば湯を含む。
心からの合掌。ご馳走様でした。
店を出てふりかえると、ボクは人に知られぬよう嗚咽した。
草の子、よかったな。お前、まだまだ上があるよ。まだまだいい蕎麦屋になれるよ。
店の前には前にも増して行列が続いていた。そばはまだありますかと問われて、3時頃まではがんばりますと店長が応える。明日も、明後日も、ずっと、ずっと。
彼女はこのまま温泉に浸かって帰ってもいいくらいに満足したという。ボクもそうだ。
でも、せっかくなので、少し歩くことにした。

探鳥園のところにクルマを置いて鏡ヶ池を目指す。どうやらその辺から帰ってこられた方に聞いて歩き始めるが、どうもおかしい。前にきたときには案内板がたくさんあったので、地図も持ってこなかった。軽い雪が舞う。ぼんやりと歩きながら、結局、時間がかかりそうなので途中で引き返す。体に積もった雪がさらさら落ちていく。こういう雪は北陸には少ないので、それだけでも気持ちがいい。
帰り道、思っていたルートに出てしまう。あ、入り口で間違えたんだ。そういうものだ。深入りせずに帰ったことを喜ぼう。また、行けばいいさ。以前はクロカンだったので、どうもかなり速度があったんだな。平坦な場所はスキーの方が調子いい。今度はそれかな。
じゃあ、お風呂に行こうと、ランドマーク妙高をターゲットに。18号線を進むが、ずいぶん改良されている。高速道路もよくなったし、4時間がかりだった時代は嘘のようだ。ランドマーク妙高は、池ノ平にある。ところが、ずいぶん様子が変わってしまっている。温泉カフェとか言って、入館して中でいろんな食事ができるような仕組み。スーパー銭湯のような感じだ。料金も時間単位で設定されている。悪くはないが、ものすごい雑踏。とてもゆっくりはしていられない。そこで地図で見つけた元気村温泉ハウスというところへ行く。ナビにもあったので、案内にしたがっていくと、近所のペンション街に。どうやらいくつかのペンションが共同でやっているものらしい。当番というペンションで支払いをして鍵を開けてもらう。自動ロックになっていて、温泉の施設は無人だ。前の人が出てくるのを待ちかまえればただで入れるが、そこは自制心にまかせてあるようだ。
当番のペンションには古いスキー板が飾ってあって、ペンションの亭主と話し込む。空気がいいなあ、このあたりは。薪ストーブの香りもいい。空気が乾いているのだ。それが重くない香りを生んでいる。
お風呂は小さいが、70度くらいの源泉。単純硫黄泉。弱アルカリ性。かけ流しだが一部浴槽内で循環させているようだ。ひと気が少ないので浴室は寒い。が、お湯はすばらしい。柔らかいが力強い。よく温まり、上がる頃には寒さが全く気にならない。
いいお湯を見つけたものだ。
帰りは、ETC割引の関係もあって、中郷まで移動。18号線沿いがさびれている。高速が開通してから、赤倉から中心がインター近くに移った感じがある。ニューミサや文ざはそのまま。少しほっとした。
思い立ってからの遊びだったが、全くの充実である。今度は、ついに志賀高原に行こうか。行けそうな気がしてきたなあ。野沢温泉でもいい。たまに一泊したくなってきた。