総括

出張で遠くまで出かけていたのでラジオをずっと聞いていた。オリンピックの総括が多く、元NHKの西田善男、NHK解説委員の山本浩、そして、二宮清純などの話が聞けた。昨日は、朝日新聞の西村欣也が野球について書いているし、野村監督も40分ほどダメ出しをしていたとのことだが、こと野球に関しては同音である。誰がどう見てもそういう形で、直接の要因があるにせよ、準備も含めた戦略的なミスである。この国の野球には、マネジメントの発想がない。あるもので何とか戦えという発想は、旧軍から多くの前進を得ていない。だれかが、旧軍の戦術を見ていくと兵站の考えに乏しいと分析していた。おそらく、それは知見ではなく、ほぼ固定した評価だろう。
必要なものは背負っていく。
一騎打ちで決着を付ける。
どこかで潔く散る。
そういう考え方である。
ないものは補給する。
あらかじめ勝負の帰結を決めて、対応を幾重にも用意しておく。
無様でもすがりつく。
そういう姿を美醜の問題で片付けてしまっていた。
日本の野球でGMが育たないのは、現場の指揮官が大御心を感じながら指揮を執るという極めて曖昧な思想統制しかできない体質にある。簡単に言えば、監督に任せてしまう。もっと、単純に言おう。戦犯を決めて詰め腹を切らせる。どんどん切っていて、組織の体質は変えない。国敗れて山河在り、である。
星野は、その性格上、敗軍の将兵を語らずだろう。WBCも任せてはいけない。徹底してこの敗戦に拘泥して何がいけないのか、どうすればいいのかを考えてみよう。ことによると、実はそこらが本音だが、アマプロの関係をいよいよ見直し、統一したコミッションを創出しよう。日本サッカーが通ってきた道だ。もう2週遅れだが、いい機会になった。星野には、その仕事なら可能だ。いい引き際を、そして、140キロに満たない直球と、曲がっているのかどうかさえ定かでないスライダーで、20勝することもなく気迫だけで投げていた男の花道である。
ああ、どうしても野球が長くなるな。
多くの論説は、商業主義のオリンピックを国威発揚の場所に戻してしまったのではないかという批判を持ち続ける必要があって、これは中国スポーツの勝利ではなく、中国という国の政策的な勝利だとしておかねば、日本はまたしてもナショナルスポーツに向かってしまうという言い方だった。その表現の方法におそらく誤りはないだろうが、しかし、オリンピックが国威発揚じゃなくって何なのだろうという本質的な疑いが残る。数年に1度、いや、今や「日の丸ビジネス」とでも言いたいほどに、プチナショナリズムをくすぐる仕種があふれているではないか。
ボクらが見たいのは、超人のプレーである。スポーツに秘められた、スポーツでしか表現しきらない、たくましく研ぎ澄まされた人間という装置の崇高な可能性と限界である。ヒトがアスリートとして在る場所に感動したい。