ご当地映画

映画もとんとご無沙汰で、DVDでしか観ていないのにえらそうな書き方はいけないのだけれど。
おくりびと」でずいぶん映画館に行列ができていて、そのうえ「釣りキチ三平」の公開。滝田監督への賞賛ますますなんだけれど、アカデミー賞を取っていなかったら賞賛していたかどうかってところなんだよね、いつも気になるのは。
このところの若い子たちは、売れている曲はいい曲という価値観を持っていることも少なくなくて、多くの人々に指示されているものに高い価値があると考えているらしいのだ。昨晩、放送大学でそうした価値基準の形成について、価値が大衆化される過程を抗議していたが、キッチュについてしっかりとした話が聞けた。勉強になる。たまにああいうものを聞かないと馬鹿になっていく自分がいるとはっきりわかった。
釣りキチ三平」は、マンガ原作を映画にすることの難しさみたいなことをよく聞く。そのままだという噂でもある。そもそも、あなたもお好きでしょうと言われたが、ボクはだめだな。読むには読んでいたけれど、そのマンガにはついぞ愛着を持てなかった。その理由のひとつは、主人公の天才少年のような人となりと、まるで星くんや伊達直人のように戦い続けるしぐさがどうもだめだった。いや、そういうマンガだというならいいんだけれど、所詮サブやんや味平なんである。そこから先が見えなかった。釣りを知らないボクであったためだろうと後年読むんだが、これがまた、そこから抜け出せない。かなわないことを知る少年の姿に、人の現像を見ているからかも知れないな。
一番困りものは、ご当地映画で有名になったと思い込んでいる人たちがまだまだこんなに多いということだ。映画のロケ地になったところで、その土地の価値が格段上がったりする訳ではないのに、どうもそういうふるまいが多く、それはかえって映画の世界観を崩してしまうこともあるんじゃないかとさえ思うことがある。しかし、どうしてもその土地の、その場所の魂にしか依存できない作品も間違いなくあって、例えば「黒部の太陽」や「剣岳点の記」などはそういうものだ。この場合は、どこか別の場所で作られようと、魂が必要になる。春日山の本丸跡に佇むと、土地の霊性に身震いするようなものだ。その魂を抜いた作品もあるので、そんなときには酷評してやればよい。
さて、それはともかく、このあたりを題材にした佳作が多いのはうれしい。見えていないものがふくらんでいくと、この風景の奥行きがいっそう深くなる。前述の2作品に、「高熱隧道」を加えると、多くの人々が何に挑みかかったのかがわかってくる。滝田監督の安っぽい小道具と、こけおどしのようなはりぼて臭い大道具、これみよがしなCGをだれか大声で笑ってあげれば楽になれるのに。