反対というのは簡単なのだが

徳之島のニュース。とにかく反対だから、政府関係者には会わない。
そういうのを民主主義と呼んでいいのだろうか。
少なくとも、協議を行う義務はあると思う。
集会だけで民意が証明されているというなら、一体政治とは何だろう。
終末処理場、斎場でも同じ反応がある。どこかになくてはならないが、なぜここでなければいけないのか。そういう態度は開き直りだ。勝手に名前を出されていい迷惑だという態度だが、一定の合理性を認めるべきだし、議論で諦めさせるのがこの国が選択した政治的な手続きだろう。
杭を打ってもその下には生き物がいるというどこかの首長のことばも聞き捨てならない。だったら、私たちの社会か活動のすべてが停止する。そんなことを理由にしてはならないし、そのことで押し切るのは、古いことばだが、ファッショである。
世論が押し切る。その世論が曖昧な勢いだけの根拠で走ることを警戒しなくてはならない。その抑止力が民主主義という仕組みだったはずなのだが。