ニワトリ有権者

山遊びの先で新潟日報を読むと大塚英志が「考えたくない民意」と「ニワトリ有権者」というなかなか気になり、そして得心できる言い方をしていた。肩書きが、エロ漫画原作者となっていたが、さすが大塚である。この国の民意とやらの浮つき具合を的確に表現している。
今から、また新潟に行くので、途中で買ってこようと思う。
ここからは追記
まず、おわび。「エロ漫画原作者」ではなく、「漫画原作者」となっていました(笑)エロ漫画編集者が経歴にあるのでそのように思い込んでしまった模様。ただ、水戸芸術工科大学教授ともなっており、論壇の雄も定職に就いているとびっくり。
コラムのタイトルは「普天間移設 政権迷走に思う」というまるでリーダーズコラムのようなもの。

今この国にあるのは「考えたくない民意」である。

として、圧倒的に支持した小泉改革の全否定と民主党への罵倒という節操なき有権者の態度を「ニワトリ有権者」と呼ぶ。三歩歩いたら忘れるという意味だ。
投票行動は民主主義の根幹である。この国は、国民主権の国であり、民主主義という社会システムを採用している。ゆえに、国権の最高機関は、国民が主権の行使である投票によって選ばれた国会にある。国会は立法府なので、この国は法治国家であることもはっきりしている。なのに、その自身の投票行動に責任を持てず、その場限りの民意に左右される国とは一体何なのか。そんなことを日ごろ考えて、最近の政権批判、大塚のことばを借りれば政権罵倒には、大きな違和感を感じていただけに、このコラムは気持ちがいい。
大塚の矛先は、憲法にも向かう。3日の憲法記念日に向けられたとも思えるのだが、3日ではなく、1日に掲載されるのがまた扱いがよく見えて面白い。
普天間の問題は、沖縄県に基地を置くとか、普天間が危険とか、徳之島でいいとか悪いとかの先に、憲法問題として語られるべきだ。そもそも、日米安保はどうなのだ、自衛隊はどうなのだ、海外への派遣は違憲との判断が出ながらその司法判断を無視して居直るという政権のあり方はどうなのだろうと、そんなことを書いているのだと思う。法治国家として、立憲国家として、法に従うことが出来ないというのは全く国家としての基礎をもたないとさえ思える。
これは大塚のコラムから離れるのだが、憲法というこの国の成り立ちを議論することもなく、ただ、自衛隊だって役に立つから、誰も使わない施設なんか要らない、道路が渋滞して地球温暖化が進むとか、そもそも何を議論しているのかわからない勝手な意見表明に「民意」と呼ばれるものが沸き立ってしまうような「炎上型」の世論形成は何に由来しているのだろう。冷静で合理的な判断は、白い勝負服の女性議員に任せてしまっているのではないだろうが、懸命に議論している人を傍目で見てちょっと突っ込みを入れるという物言いのスタイルは、案外、激論と呼ばれた番組が始まったあたりに端緒があったのかもしれない。以後、若い奴らがステレオタイプ的に話す現場をよく見かけるようになった。いや、ステレオタイプならまだしも、その場の空気に支配されまくって、勝ち馬に乗って話す奴が増殖している。
実は、そこにはディベートなるものが流行して、ものを賛成反対で分け隔ててしまうような議論の流れがあったように思う。学校でもディベートを取り入れて悦に入っている連中も少なくないという話を知り合いの先生から聞いた。案外そうしたものが社会の基礎的な空気を醸成している可能性がある。
ディベートについては面倒なので説明などしないが、反対賛成のような立場を明確にした論証と説得を中心とした議論のやり方は、白黒わかりやすくてけっこうなんだけれども、賛成反対に向かうベクトルしか表現されず、そのうえ、賛成反対に乗っかっていれば何となく自分の立場を示したような気にさせられる。今の政権構造と同じだ。本当は、賛成反対の中にさまざまな色があって、その色はこうなんだけれど、このケースにおいては賛成であったり、反対であったりと判断や決定がどちらかに傾くだけなのだ。それを最初から賛成反対の立場を決めておいて議論するやり方を、こと多様な表現やことば、考え方、理念、そして、わからないということを考えようとする態度が不明確で迷いがちな子どもたちの教育という活動において取り入れることには、全く議論する、つまり、自ら考え表現する個人を育てることからはいよいよ遠ざかる。
ここ20年の中で、賛成から反対へ大きく針を振りまくるこの怪しい民意は、実は、あの台形の面積*1とか、円周率*2とかで学力論争に加わった人々の態度とよく相関していて、この国の基本的な民意創出の形を作ってしまったんじゃないか。
異端ではなく、個として際立っていく姿が乏しくなっている。いや、異端を恐れているのかも知れない。
ディベートなんか、せいぜいデッサンにしかならない。そんなつもりではなく、そのデッサンで大家面する若者は確実に増加している。わからないが、どこまでも考え、表現し、議論を続けようとする態度。それが教育が育てるべきものだし、もちろん、大人が持つ力である。態度を表明するだけで考えたことになる。そんなものは、民主主義ではない。
徳之島の反対行動の違和感の正体は、どうやらそんなところにあったようだ。

*1:学力・学習調査にも出ていたらしい。なぜ、上底、つまり、上の底という変なことばが使われているのかをちゃんと説明できる大人にであったことがない。用語ではない。そこには、理屈が秘められているのだが、公式は揺るがないと考えることを学力と呼んでいる人たちは疑わない。疑わないという態度が最も野卑である。

*2:円周率が3.14に戻ったと喜んでいる人もある。そもそも、3.14も概数である。円周率は以前も直径と円周の長さの比の値であったにもかかわらず、小数第2位までの攻防で価値を守りきった人たちがあるらしい。きっと、スーパーのチラシにも敏感な人々だろう。