民主主義に半年は長いのか

迷走した挙げ句の辺野古。ほらそれしかないだろうと言いたげな自民党も、辺野古しか適地はないよとは言い出せず、仕方なく地元の反対ばかりをメディアは煽っている。
民主主義はしばしば迷走するのである。迷走した果ての結論は、民主主義故に尊重される。
そんなものだろうと思うのだが、それすらも声高に叫んだ方に分があるのはどうにも割り切れない。かつて、いしいひさいちが「バイトくん」で使った名言「革命なんて声のおっきいもんの勝ちやで」を彷彿とする。運動とはそうしたものなのか。議論を大声でかき消してしまうのはどうかと思う。
鳩山が約束を守らなかったという点については糾弾されるべきだが、それとて自ら引いた仕切り線。とすれば努力目標であって、5月末に何かの合理的な理由があったわけではない。心情的に遺憾であるというだけだ。民主主義にとって、半年という期間はそれほどに長いのだろうか。議論を積み上げていく努力もなく、一気に答えを出せと言うのは、まさしく、台形の面積を教えないから台形の面積を求められないのだという乱暴さにも通じて、浅薄甚だしい。
終末処理場の建設反対運動に疑問を抱いて、かなり長い間糞を野原などの戸外でしかしていないという写真家が新聞で紹介されていた。反対と叫ぶだけでいいのかという問いかけが最初だが、記事でおもしろいと感じたのは、糞はそうしているのだが、尿はダメらしい。植物にかけると枯れるのだそうだ。どうしても避けきれないもの、インパクトを残さないといけないものはあるらしい。
何の目的に、どうしていく方向性があるのか。その視点を欠いたままだから、東アジア情勢と珊瑚礁ジュゴンを天秤にかける、いや、もう少し端的にいうとジュゴンを楯にすることで議論を無化させてしまう荒技が用いられている。