坂本龍一「音楽の学校」

ETVでやっているシリーズ。http://www.nhk.or.jp/schola/
もともとは、「コモンズスコラ」*1というCDの企画。その映像化。
ここ4回ばかりは、ジャズがテーマ。スイングからバップ、モードときて、第4回目はフリー。楽理を説明しながら、中高校生のワークショップが付いているのが興味深い。
スイングはいわば合奏という坂本のことばが意味深い。それはジャズの旋律を奏でていても、結局はジャズのようなものでしかないと考えているのは、もちろん、モダンジャズ以降の生まれであるボク自身の感覚でしかないのだが、ジャズの精神に若い頃乗っ取られてしまったこともあり、人が浮き出てくるものをジャズと考えている傾向がある。坂本は、ゲスト講師の大谷能生山下洋輔とともに、さまざまな制約を取り払いながら個人が前に出るような流れをジャズは必然的にもっていたし、それは演奏者の意図や思想とは無関係に、社会的な精神とシンクロしながら変化していったという。
山下は、フリージャズをやっている奴はみんな楽しそうだったし、やっているというだけで活動家(アクティビスト)だと思われていたし、またそのようでもあったと話す。
坂本龍一もそうした一人で、若い頃、夭折のフリージャズ奏者阿部薫と見えたことをもとに追悼文を記している。
「フリー」。単純だけれども、そのことばが社会との関係性を断ち切るために使われたわけではなく、むしろ、そうしたものとの連関で生まれる新しい何かを見つけ出す営みだったと、当時は思っていたし、今、そうではない「フリー」が横行し始めていることを考えると、もう一度立ち返って「フリー」という場所を考えてみたい。
番組の中で、アルバート・アイラーの「サマータイム」が流れた。アイラーやドルフィーといった、まるで人生を吐き出しながら、音と命を引き替えにしたような演奏家の魂を、今どれ程の人が大切に考えているだろう。居心地がいいだけの、耳あたりのいいだけの音を、音楽などと呼んじゃいけないな。
アイラーがイーストリバーに浮かんでいたのは三島由紀夫が自決した同じ日。第一期の山下洋輔トリオが早稲田のバリケードの中で演奏したことをモチーフに描かれたのが立松和平の「今が時だ」*2だったことも懐かしい。
ジャズの締めくくりに山下洋輔は言う。勝手に、自由にやることは自己責任をyともなう。だからこそ、みんな一度は経験して欲しい。そこから、自分はどんな音楽をやっていくのか、それを考えて欲しいと、まあ、そんなことを話す。2台のピアノによる「マイ・フーリッシュ・ハート」はとても美しかった。
蛇足になるが、ケーブルテレビで地元の小学生たちの音楽会を流していることがある。去年は、「キセキ」とかいう曲が使われていたり、その当時の流行音楽を演奏することも、この頃ではタブーではないらしい。しかし、スタンダードの凄味をもう一度考えて欲しい。伝統とはタフなものなのだ。それゆえ、打破するために、フリージャズに込められたようなエネルギーが必要だった。そのエモーションが音楽の根底にあると考えるのは、学校教育とは少し違うのだろうか。とすれば、学校の音楽とは何か。意味がわかれば物語はそれで十分とは誰も言うまい。

*1:そっちのサイトにも中州産業大学教授みたいな坂本教授が講義をしていて、それもおもしろい。http://www.commmonsmart.com/schola/

*2:もちろん、Now is the Timeの翻案