劔岳点の記、ヴィヨンの妻

先週末の立山登山のこともあって、「劔岳点の記」をレンタルしてきた。昨晩から今朝にかけて拝見した。
日本アカデミー賞など随分と話題になった作品で、浅野忠信香川照之が出演し、知っている人も幾人もかかわっている映画ということもあって、期待感も少なくなかったのだが、結論的に、あっさり言ってしまえば、山の風景はとても美しく、激しく厳しく、それはそれでよかったのだが、原作のスケールや人間観を越えるものは見当たらなかったということだ。
原作が持っている深さは、未踏峰の探索と測量という国家的な仕事にまつろう人々の思惑を縦糸に、公務員である柴崎と日本山岳会の描かれ方が巧みに交錯する横糸によっていよいよ増していく。自然の風景は、新田次郎の他の作品と同様に、実のところ、現実の特定のどこかでなくとも、現実を見せられなくとも、十分に私たちの風景として背景を描ききっている。映画となると、それを否応なくリアルに描こうとして、かえって矮小化することはよくあって、実はその罠にしっかりと嵌っている。
いや、風景はすごい。よくもまあと思わせるほど、山を描こうとしているが、そこは所詮映画で、結果的に過剰で説明的になってしまう。それでも実地の凄味は雲や風、光の描写によって伝わるのだが、案内人の担ぐ巨大な荷物が右に左に揺れるたび、なさけない作り物の人間がそこに立っているように感じられる。むしろ、しっかりと本当に荷物を背負って合成してしまえばとまで思えてしまう。
とりわけ、最後の三の沢を詰めるシーンは、初登頂といいながらあまりにもあっさりと進みすぎる。その登頂が何を変えてしまうかをよく知ったうえでこの仕事を引き受け、その後、登頂した、しないという議論も含めて多くの喧噪に巻き込まれたはずの長治郎らの戸惑いをあそこまで看過していいものかどうか。あれだけの描き方では、劔は登らないことにしている山だから登っていなかったということになりはしないか。どういう重さがそのアタックに秘められていたかを、あまりに、小さく描きすぎている。
作品を安っぽくしてしまったのは、小島烏水とのやり取りだ。恐ろしく冗長で、稚拙な、安っぽい青春ドラマのようなことばの交錯は、物言わぬ山々と日ごろ語り合っている人々の会話として、全く成立しない映像だ。そのやり取りがなければ伝わらないのではないかと監督の腰が引けたとしか思えない。
映画館の迫力で見ることで印象はずいぶんと変わるだろう。しかし、原作には遠く遙かに及ばず、むしろ、私たちの中の風景を壊してしまう作品になってしまったように思う。
むろん、これまでの多くの山岳を扱った作品と比べても全く遜色はないが。
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朝から見ていたのが、太宰治原作の「ヴィヨンの妻」。やはり、浅野忠信の作品である。松たか子が主演と言っていいだろう。
これは、松たか子の凄味を感じさせられた。表情やかたちでしっかりと演技できる数少ない女優の一人だとはっきりとわかった。この人には、辛い境遇の中の笑顔がよく似合う。逆に、広末涼子がきつい。秋子の性格付けが、あまりにステレオタイプで分かり易すぎる。女優は難しい仕事だな。裸曝して、素人にそんなことまで書かれる。

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このお姉さんは何だかよくわからんが、太宰ブームというのもあるようではあったが、どうなったんだろう。
ボクは「畜犬談」がもっとも好きである。