ニッポンの嵐

小学校の授業参観があったので、図書館に行ってみると、ちゃんと置いてあった。隠している学校もあるというのに、ちゃんと配架されている。そうでなければ送った人の気持ちさえないがしろにするし、他の献本同様の扱いをしなければおかしいだろうと。
それで、授業もろくすっぽ見ずに本を読んだ。
全体にしっかりした真面目な本で、メンバーが日本の地域で文化・産業に携わる人々とことばを交わしている。とはいえ、「笑ってこらえて」のように東京さえローカルに見てしまうような視点があるわけではなく、「田舎に泊まろう」のように対極的な場所で結局身近な変わらぬものを見つけてしまうというプロットになっている。田舎を特別視しない点では、うれしい部分があるけれど。そこには結局、同じマインドで生きている、思いや願いを抱え、いい明日を見つけようともがき、笑い、たくましくくらす人々がいるということをメンバーが発見している。
異質なのは、任天堂ジブリ。日本文化を代表するコンテンツを生み出すこの2つのプロダクション(任天堂は会社だけど)のインタビューではできるだけそこに流れる人の感情やら、どこにでもある卑近な切迫感を描こうとしているようにも思える。勇名を馳せた人の中に、姿勢の人々と変わらぬ姿を導こうとしている。それは、どうやら嵐自身でもあって、トップアイドルの殻を剥いだところにある一青年としての姿をそうしたものから描こうとしているようにも感じられた。
メンバーのことを何も知らないので誰とも覚えていないが、青森県の農業の話は印象的だった。土地に力があり、その土地の力を活かしてくらすのだ。そういえば、奇跡の無農薬林檎もこの土地のことだった。
政治家の腐敗、怠慢、傲慢を挙げるときに、いつも勝手な言いぐさがまかりとおる。権力のあるものにものを申すのは結構簡単なんだ。しかし、仮想の権力を解体しようと、つまり狐がかぶっている虎の皮を剥がそうというのはいいのだけれども、しばしばその論究が狐にも及ぶ。農薬漬けの野菜への批判を考えたときに、同じ構造を見つける。
政治家を、狐をそのようにしたのは誰なのだ。虎の毛皮にひれ伏すような、虎の毛皮を着させるような思い上がりを社会構造に組み込んだのは誰なのかを考えてみるがいい。この国の主権者は、国民であり、民選された政治家なのだ。有権者にも同等の責任がある。民主選挙をしたことのない中国とは違うのだ。
農薬漬けの農産物も、そのような作物の姿が求められていたからに違いない。消費者にも責任があるのだ。曲がったキュウリをアウトレットのような価格で買ったからといって免罪にはならない。その曲がったキュウリが流通し、ふつうに売買されるような仕組みを求めているわけではないだろう。わけあり商品が安く売られて、相当の人気を博しているのは、その程度の「わけ」など消費者が許容できることを示している。それなのに、そうした商品が正規市場に流れて、普通の商取引の中でやり取りされるわけではない。フェアトレードという概念は、発展途上国との間で使われているが、こうしたところにも適用すべきだと思う。
さて、本の話に戻ろう。
本の中にときどきトピックのように日本の文化のような紹介コーナーがある。これが全く陳腐な出来。なくてもかまわないというのか、付けた分だけ恥ずかしい。小学校低学年の生活科のための図鑑でさえもう少しまともだ。この本がそういう教育系の出版とは別の場所で作られたことがよくわかる。
正直、インタビューの内容も、嵐という特別な人が聞き手に回っていることによる価値の増大が激しい。嵐でなければ、それほどでもない本なのだが、嵐であることによって活かされているし、そうでなければ嵐を起用する意味もないので、そこは成功していると考えていい。
印象的なのは、写真だ。どうやらフィルムも使っているし、意図的に画像をポラロイドやロモのような画像に加工しているようだ。文章には、メンバーが撮影しているものは銀塩フィルムだと書いてあるけれど、別にトイカメラを使ってる様子もないので、そのことよりも、全体の色調をそうしたものに合うようにしている意図があるという意味だろう。これはなかなか新鮮である。
というのは、学校の掲示物やお便りを見るとそう感じることが少なくないが、鮮明で情報量の多いものを必死で提供している感じがある。果たしてそうなんだろうかと思う。3Dテレビを見ても、そんなものなくても十分にボクらは情景を描けると感じてしまうのだが、現実に近いことを、それをリアルと思っている、いや、勘違いしている人々は、いる。カメラと印刷、ウェブでの画像表示の関係をうまく把握していないなという学校ホームページをしばしば見かける。そういうあたりを考えると、この本のディレクションはなかなかいい感じで、こういうのを見習って欲しいとさえ思う。
時間があまりなかったので、ざっと読んでみたが、なるほど購入して読み込むというよりは、朝読書だとかいう時間に興味のあるところだけ読む、という用途にはちょうどいい。ここから、例えば、総合的な学習の過大にアプローチするものを読み取るには、相当にしんどい。それは、高校生の仕事だが、高校生ならもっといい本を容易に探してくるだろう。