一人で何もできないおばちゃんになりたくない

奇妙な違和感が残ることが、たまにある。
勤務の帰りにラジオを聞いていると、今や官製の婚活が真剣に実施されているようで、その担当者がゲスト出演していた。同様の取り組みは昔からあるのだが、たいていは農村や田舎の嫁不足だったり、過疎の村の話だったりした。今や、品川区でも同様の例があるという。
対象となっているような年齢の人々に話を聞くと、「出会い」がないという。では、というので、出会いイベントを仕掛けたりしているのだそうだ。この辺の方法論はコンパとさして変わらないし、じゃあというので、他に素敵な手があるのかというとなかなかない。実際、以前にそういう仕事を頼まれたこともあったが全く手がなく行き詰まった。今までにいろいろ頼まれた仕事の中でもそこまで手が見いだせなかったのは初めてだった。
担当者も苦労しているのだろう。この頃の人たちのコミュニケーション能力不足を挙げた上で、「出会いは作った。あとはみなさんで」と思わずもらしてしまった。
違和感の正体はそこにあった。そもそもそういう「出会い」を求めているのだろうか。人と人が同じ場所で会うことなどいくらもできる。「出会い」と呼んでいるのはそんなものじゃあないんだろう。まず、「出会い」が作れると考えている欺瞞、そして、行政が作る「出会い」にそれでも期待感をもっている人がいるという不思議。違和感はそんなところから来ている。地方公共団体の成人式などつまらないに決まっているのだから来なければいいと思うのに、来て、暴れる。よく似た違和感である。
そう思っていたところへ、一人でなにもできないおばちゃんになりたくないから活動を休止するという。そもそも、その動きが異様だろう。何でもできるおばちゃんというよりはふつうに生活できるおばちゃんになるために活動を休止するのだという感覚は、本人が真剣で、共感して欲しいと思って表現しているだけに違和感を通り越して、哀れさえ感じてしまう。
どちらも世情の反応は芳しくない。それで、少し安心した。