河原の釣り竿

ずいぶん昔のことになる。
黒部川で釣りをしていた。夏休みが終わった頃だったから、こんな時分だろう。
渋いながらも少しライズがあり、釣れなくてもライズを取っているのは好きで、またしても、かからないフライばかりを交換していた。
上から釣り下がってくる人があって、こっちの様子をそれほど気にもせずにダウンクロスでウエットを流している。広い淵なので、それはなかなか有効な手段に違いない。だが、手前の小さなライズを拾っているボクには、ちょっと厳しい。川で気分を悪くするのは随分と嫌で、ちょっと下流に先に向かうことにした。
2分ほど下ると、河原に何か落ちている。釣り竿だ。見覚えがある。
知り合いの子どもが親に買ってもらったと喜んでいたものだ。
折れている。
何があったのだろう。流れは人の気配を遺さない。水辺を見るが、子どもの足跡はない。まさかとは思うが、流れてしまったなどということはないだろうな。必死で足跡をさぐる。同じ足跡が堤防に戻っていれば、おそらくは大丈夫。今のところ、それ以上できることはない。自宅の電話など、ここではわからない。
次第にあたりが暮れていく。もうライトでも点けないとと思った頃になって、砂に遺された足跡がそのまま引き返していることに気付いた。離れた場所を探していたのでわからなかったのだ。
不安は残る。それは、川に落ちていないという証明にはならない。折れている釣り竿も気になる。銅のあたりから弾けるように割れている。強い力がかかったんだろう。踏んで折れたようなあとではない。
しかし、致し方もない。あれだけ大事そうにしていたんだ。そのまま放置することはない。何かがあってここに置いたままになったんだと、考えを巡らしながら他の可能性を考えた。
すっかり暗くなった。とりあえず、捜索を打ち切った。クルマに戻り、知り合いに聞いて、その子の自宅に連絡を取ってもらうことにした。幸い、連絡はすぐにつき、何事もなく自宅にいるという。ほっとした。
釣り竿は河原に置かれたままで、こんなことなら持ってきてやるんだったと思ったが、きっと何かの都合でそんなことになって、明日にでも自分で取りに行くだろうと、気持ちがどっと疲れて夜の河原に入る気にもなれず帰宅した。
数日後、同じポイントに入ると、釣り竿はまだ、そのままになっている。さすがに拾い上げて、結局、知り合いに託すことになった。
何があったんだろう。
根掛かりだったそうだ。それで思い切りしゃくったら、弾けて折れた。腹が立って、そのままそこに捨ててきた。
子どもはこんなものだ。その場の感情で何の憐憫もなく、思慮分別の欠片さえもなく、こういうことをする。そうするから、子どもという。いちいち腹を立てるのも、興奮した分だけの悔悟が相手にないのだから、どうにも切ない。
母親に買ってもらったのだと聞いていた。その釣り竿をそこに捨ててくる感情が、実は、今もわからない。わからないまま、十数年経って、彼は一体どんな人になったのだろうと、今朝、ふと思い出したのだ。