星の湯再び

富山市の中心街にいくと、案外お風呂に入れる場所が少ない。温泉が早々街中にあるわけでもなく、最近の掘り上げ温泉も、温泉と名乗るには資格があるといいながら、どうにも、ちょっと日曜の夜には馴染まない。
どうしようと言いながら、また、星の湯に行こうと相成った。温泉ではなく銭湯。富山市内にはまだまだ少し残っている。
東京の銭湯は、大抵、富山とか石川出身だったという話はもう旧聞のうちになているのかもしれないが、そうだったのだとすると、東京の文化と思っていたいくつかは北陸由来と考えてもいいのかもしれない。ケロリンの洗面器はそういうもののひとつかも知れない。あるいは、番台、あるいは、脱衣所の仕切りの鏡、籠、下駄箱、そうしたものの中に独特の風習が潜んでいるかも知れないのだ。
映画「水の女」では、富山県出身の映画監督が銭湯を舞台に映画を撮った。なるほどと思う。さまざまな背景を持つ人々が交錯する場所としては格好の舞台だ。
学生のころ、行きつけの銭湯は繁華街に近く、夜の稼業の人もたくさんいた。女湯から出てきたお姉さんの洗面器から黒い下着がちらっと見えて悩ましかったこともある。兄ちゃん、飲むかと牛乳おごってもらったこともある。
星の湯は廃業の危機を乗り越えて新装し、今に続く銭湯。とてもきれいにしてあって、お湯もきれいだし、洗い場も清々しい。以前に記憶を頼りに訪ねてとてもいい気持ちになったのだ。
牛乳石鹸の暖簾をくぐると番台のお母さんがいない。で、二人分払って中にはいる。数人のお客さんがゆっくりゆっくりと動いている。この時間に子どもが走り回るスーパー銭湯型のはどうもダメなんだ。どうして、親はこの子を放置するのだろうと、せっかく心をゆったりとさせようと来ているのに、どうもむかむかする。この頃は、集団行動になれない親子が戸惑いながら勝手をするのもなんだか哀れでもあり、腹立たしくもあって、どうにも豪華な大江戸温泉型は敬遠している。四球投げるのも勘弁願いたいくらいで。
ジャグジーにぼおっと浸かっている。天井が高いのはいいなあ。ふわふわと体が浮き上がって行く感じにさえなる。深い呼吸をしているようだな、僕は。
相当ゆっくりと入って、上がってからも広い脱衣所でこち亀を読んでいた。向こうで、彼女の声が聞こえる。あっちも上がったな。もう少し体を冷ましてから。
ふっと立ち上がると、番台のお母さんが、お連れさん出られますよ、と彼女に声をかけていた。あれっ、入ったところは見られていないのに。あ、そうだよな。二人分お勘定をおいて置いたから、連れがあることはわかるし、他のお客さんは馴染みだろう。でも、何だか夫婦だとみて見られたような気がして、嬉しくなった。
外の風がいい。市内電車が横を過ぎて行った。まるで、映画みたいな風景だ。このまま、2人の四畳半に帰って安物の発泡酒でも飲んで、ひとつ布団で眠りたいと思った。
富山市ってどこか都会の賑やかな部分だけを真似してできた模倣都市みたいに軽蔑してきたけれど、こういう場所が残っているくらいだから、そんなくらしもちゃんとあるんだろう。
猛烈に忙しかった九月が過ぎ、ぱんぱんに張り詰めた体が緩んで行くのを感じていた。