ロータリーよ

ロータリーがもしかすると、その生産の歴史が途切れるかも知れないという。
マツダヴァンケルロータリーを量産化できたことを東洋工業は大いに誇るべきだし、できれば、新世代のロータリーを生み出して欲しいとさえ願う。
最初のロータリー車コスモスポーツは、どちらかというと、「帰ってきたウルトラマン」のMATビハイクルで憧れた。R360に似てはいるけれどはるかに洗練されたデザインが、ウルトラシリーズにもよく似合った。ポインターと並んで、歴代の名車に数え上げていいと思う。技術的にはアペックスシールの耐久性が低く、数万キロ単位で限界が来るとも聞いていた。
その後の東洋工業の節操なきRE車は、ファミリアREさえも生んで、とても楽しかった。今でも、キャロルにREを積んでいたらどうなっていたのだろうと思えるし、高出力でないロータリーを作っていたらどうなっていたのかと想像するだけでも面白い。3ロータリーのコスモもあったのだから、1ロータリー車ってのもあってもよかったのにと思うのだ。
高斎正SF小説ばりにルマンで優勝してしまったときには驚いた。驚くと同時に、ホンダだって日本人載せて低公害エンジンでモンツァで勝ってみろよとつぶやいていた。どこも、それがどんな企業利益につながるかはわからないけれど、こんなものが造れるんだ、こういう未来だって現実だってあるんだという風が吹いていた。
ジョブスの死によって、みんな彼の創造性に言及している。朝日新聞の「天声人語」でも書かれていて、夭折したが「本望」だったみたいな無責任な書きぶりには幻滅したけれど、明らかな目標や目的がなくっちゃ動けないというのはどうにも人間的でないだろう。動き始めたら目的やら夢が生まれることだっていくらもある。誰よりもいいもの作ろう、どこにもないものを作ろう、自分がいちばんいいと思えるものを作ろうというのは目的じゃない。意志だ。それで突き動かされた結果が、F1だったり、メジャーリーグだったり、美しいパソコンだったりすることは、よくある。よくあるのに、目標らや目的の合理性、見通しのあるなしで頭打ちにする。
書きながら思い出した。
小学生の絵画作品、写生のような作品を見ていたら、全部同じ感じに見えて戸惑ったことがある。手前に花が描かれていて、背景に校舎があって、ほぼ構図は同じ。長さの違う電信柱が立っていて、コンクリートの表情がよく描けているけれど全部同じモチーフ。なんだろう、これはと思って、展示会の係員さんに聞いたら、誰でもよい絵が描けるという酒井式描画法(方ではなくて、法らしい。法則なんだそうな)というのを使っているんですよと笑顔で答えてくださった。うまくは描けているけれどちっともいい絵とは思えなかった。こどもがもつ野生からずいぶんと距離がある。感性さえもこんな狭小なところに押し込められて、描画という技術だけで巧拙を評価されているのかと、ずいぶん悲しくなった。
iPodが出たとき、そんな技術はどこにでも転がっていることに多くの人が驚いた。もっと優れた技術もある。だけど、それはどこにもないものになった。酒井式何とかという法則をつめていっても、iPodを脅かす子どもは現れるまい。きっと、精緻にiPodを再現し、複写できる、せいぜい改良できる人が現れるだけだろう。すると、世の中にはあったものしかありえないことになる。人はもっと無駄や徒労を重ねるものだし、余計なことや余分なことから手を付けたがる。結局、精神的貧困に陥るとしか思えない。学校がそんな教育を今も続けているとは思えないが、もしかすると、そんな体裁だけのある絵や、手っ取り早く跳び箱が跳べたり、二重跳びができたり、作文が書けたりすることを大事にする親の意向もあるのかもしれないが、よくわからない。
70キロそこそこの人間を運ぶために、1トンを超えるクルマを作って、レアメタルやらなにやらと大量の資源を投入して、たかが数割の燃料消費率を稼いで地球を守ろうという朧気な戦略をもつハイブリッドカーの人気は、世界制服のためにご近所の幼稚園を襲撃するショッカーにも似たミスを感じるボクにとっては、ロータリーのような、それがガラパゴスと言われようとも、どこにもないものに力を注ぎ込むことにホモファーベルとしての人間の本質が隠れているように思える。
そうだ、今日はF1の予選。咆吼するエンジンに昂ぶる心情は、社会としてはどうでもいいはずなのに、ロープ際の逆水平に勇気づけられる精神の高邁な地平を感じさせる。
ロータリーは、ボクの世界には欠かせない。それだけのレゾンデートルでいいのかとも思うけれど、また、この世界に居続けて欲しい。CX7にロータリーってどお?SUVなら、燃費とかの基準も緩いし。最も、HVも所詮ガラパゴスなので、つうことは、完全に好悪の問題でしかないな。
じゃ、結論。ロータリー車がいないと、Dがつまらない。旧車ばっかりじゃどうもねえ。