読書週間

読書は人生のためになるとか、得になるとか言われると、途端にひねくれたくなる。得になろうが、人生に有益だろうが、本を読むのは面白いし、おそらく、為にもならぬ悪書も読むし、どうでもいい猥雑なものを堪能するし、一方で、自分の中での名作を繰り返し、繰り返し読む。そういうのは、きっと「正しい読書」ではないのだろう。
子どものころ、図書室にこもって本を読むのが好きだった。あのかび臭い感じも実は、自宅が本屋だったせいもあって、ボクには生活臭だった。棚の端から本を拾い出し、次々と読んでいった。わけがわかろうがわかるまいが、本に向き合っているだけでけっこうな感情がこみ上げてきたのだ。
好きだったのは、ドキュメンタリーと図鑑。世の中にはおもしろいものがたくさんあるんだとわくわくした。嫌いだったのは伝記。偉くなった人の人生を偉そうに書かれてもおもしろくない。これは、その後の藤沢周平好きにつながってしまっているようだ。
何度も何度も繰り返して読んだのが、エベレストの初登頂の記録と、本田宗一郎の伝記。おかしいじゃないかと、伝記だろと思うのだが、どっちかというとホンダの記録という感じがして、そこには技術者が何に挑んでいったかが描かれていておもしろかった。
読書の記録とかいうのもあったが、そんなもの書いているくらいなら本を読むことにした。よく先生に、ちゃんと読んでいるのだから書きなさいと言われたが、ちゃんと読んでいないので書かなかった。面倒だったのだ。そんなつまらんインセンティブには引っかからないぞと、ませがきはいつもつぶやいていた。大人の、先生のやることなど見え透いていたのだ。
だから、自作童話大会にでたときも、話はおもしろかったが、落選した。新聞の写真はボクなのに、選ばれていないのは、なかなか自分自身気持ちがよかったが、友達がおもしろかったよなあーなどと話題にするたびに、急に正面から闘わなかったような自分が恥ずかしかった。元々出る気もなかったのだが。
読書感想文も常連だった。途中から面倒になって読みもしない本の感想文を適当に先生が喜ぶように書いた。「車輪の下」の感想文が入賞し、何かの賞を頂戴したが、今もって読んでいない。そんなものにだまされてたまるかという具合だ。
趣味を読書と書いたことも言ったこともない。生活の一部だ。血肉であり、呼吸である。
だけど、ブックレビューに出てくる本など読んだことはない。一体何を読んでいるのだろうと思うが、適当に手に取ったものを読んでいるだけ。こういう人にとっては、読書週間て何だろう。どんなインパクトがあるのだろう。
学校ではまだそういうのをやっているんだろうか。変わらない理由は何だろう。読書神話か。悪書は追放されるというのに。だったら、そんなの思想統制だろう。