椎名道三調査

椎名道三の調査をほぼ1年がかりで終えた。
北陸の二宮尊徳と言われる江戸末期の土木技術者だ。黒部川左岸台地の開拓がその白眉で、奇跡的とも思える仕事ぶりはいうのの伝説を産んでいる。特に用水開削に当たっての技術的な困難を極めて精巧な施工で乗り切っていることから、伝説はいよいよ脚色さえ帯びている。
今回の調査でそこらを整理したいと考えて、むしろ、明治の直前、異国船打払令のころの技術水準をはかり、合理的に推論するという進め方で椎名道三を再評価してみた。
すると、工事の施工術に彼のオリジナルがあるわけではないことがわかってきた。帳場と呼ばれる工区管理、サイフォンの原理を使った用水の谷越え、余剰水を集める巻江のいずれも、どこかのだれかが用いた方法を的確に活用していることがわかってきた。あとは、隧道堀と、測量だが、前者はあっという間に解決する。推測でしかないが、松倉金山の技術をそのまま使っただけである。それは、椎名家が松倉金山の支配者に連なる家系であることや、工事に参加した人々の数にもそれが見えている。確実と考えていいだろう。
隧道を使うとルートの選定は容易だ。地形をかなり無視できる。しかし、それにはかなり正確な測量が必要だ。従来、椎名道三の測量術は独学で未熟であり、そこまでの精度はないと思われていた。対岸から提灯の高低で勾配を測ったとも言われているが、それは考えにくい。すでに、時代は伊能忠敬を出んでいる。
そこに関連が予測されていたのが、高木村の石黒信由である。加賀藩伊能忠敬とも称されるが、測量、算学に優れ、測量器具を自ら開発するなど、むしろ、ダ・ヴィンチ的ですらある信由とは、彼の仕事を受け継いでいるもののの、直接薫陶を受けた記録がない。
ところが、調べていくと、信由の後継者である孫の信之が、黒部川左岸の開拓に測量方として参加していることがわかった。さらにでの功績で同地に石高を拝領している。そのうえ、信由の弟子としてはっきりわかっている現在の朝日町沼保と南保からの人夫が突出しており、測量に従事したのではないかと考えられる。石黒信由との接点はなくても、彼の優れた技術は確実に椎名道三の土木に反映していると考えるのはやぶさかではあるまい。
ここまでにずいぶんかかった。状況証拠ではあるけれど、十分に合理的なものだろうと思っているが、今後の反響を待ちたい。