落合はかなりオーソドックス

俺流とかいいながら、落合という人は相当にオーソドックスな野球をやると思う。どこにも奇策がないんだ。例の完全試合ができそうな山井を引っ込めたのも、むしろ、勝ちにこだわるという最も基本的なスタイルを忠実に実行しただけ。俺らしさというのは、単純に勝つ野球をするということだけで、それだったら、高校野球じゃないかって思える僕の気持ちと反りが合わない。リーグ戦でも短期戦でもそうだが、優勝や勝ち抜けには負けを計算することが、おそらく最も確実な方法だ。落合はそういうところの計算がうまく、凡打をヒットに生かす術を知っていたように、負けゲームを生かすことを上手に展開できる人なのだ。そこが、原との違いだろう。原は全部勝ちにいく。それは、ある意味、原という監督の個性ではなく、ジャイアンツの宿命だろう。
日本シリーズ第5戦、先の見えた試合だったが、ホームの最終戦で最終回を待たずにあれだけに人々が席を立つ。それがドラゴンズの野球なのだろう。落合だからではなさそうだ。十数年前、米倉涼子が始球式をしたスワローズとの開幕戦、石井一久と野口が投げ合い、2点ビハインドで8回でぞろぞろ席を立つ人々。セットアッパーもクローザーも、自宅のニュースで見ようとでもいうのかよほど交通事情が悪いのか、そのファン気質に驚いたものだ。負けゲームはなかったことにでもなるのか、勝ちにこだわるとはそういうことだったのかと愕然としたものだ。
実際、送球がままならない森野、荒木に、勝負強さしかない井端、定位置を取れない若手、楽しそうにうれしそうにやっている谷繁。そういうのが支えれれるのは、投手の安定感で、落合ならではといえばそれはそうなのだが、落合という打者のおもしろさからそこまで遠ざかっても、落合という俺を支持するのかというあたりに、僕の気持ちの悪さがつきまとう。
このシリーズ、ホークスは全くゲームを壊さなかった。勝ち負けは何か一つ分の差だが、ドラゴンズはその一つを取れなければどうにも何もできないままで最終戦まで持ち込んだというのが正解だろう。そして、打者の内角にちゃんと投げられることがどんなに大事かがよくわかったシリーズでもあった。
落合を総括しようと思って書き始めたが、投手交代を告げるとダッグアウトに戻りそのまま通路の奥に消えてしまう落合の背中を思い出して、書く気が失せた。小便に行くのか、お茶でも飲むのか知らないが、交代を告げてしまえば自分にできることがないとでもいうような、そういう姿に、少なくとも僕は思いを寄せられなかった。それだけのことだな、きっと。