電気料金

電気と水は使い放題。
そんな気持ちはどこかにあった。
ボクが住む土地は水が豊富で、雪を溶かすのにもほぼ飲める状態の、しかも、ミネラルウォーターとして出荷できるようなものを使っている。うんこさえ、毎回、10リットル近くを費やしながら流している。ミネラルウォーターに置き換えると、1回2000円くらい。雪を溶かす散水にいたっては、どれだけ消費されているか、ポンプの電気代が町内会の会計報告に記載されているだけ。湯水のごとくという表現はあるものの、水も化石燃料と同じで、過去からの贈り物なのだ。それをここで浪費するのは、継続可能な社会の破綻を示しているとも言える。
しかし、だからといって、そうした仕組みを変えるのは実に難しい。いくつかの問題が起きるまで、ボクらはあまりに能天気に、あまりに軽率に、あまりに享楽的に、この仕組みを甘受し、大きな問題を意識することを避けていた。
電気もそうだ。水力資源に恵まれていると言われて、電気に依存した仕組みをせっせと作り上げた。ダムのような構造物を土木技術の、自然を調伏した私たちの叡智のシンボルと崇めて、黒部ダムなど大きな物語とともに大自然に打ち込んだ人類の偉大な楔のようにさえ讃えてきた。それが、数万年単位で蠢く大地のエネルギーにとって、どんなインパクトがあって、いざ、大地が身震いするだけで呆気なく崩壊してしまうかもしれないものだと考えることを避けてきた。
そうした仕組みを受け入れてきたことで、ボクは、東電に加担してきたような責任感をもっている。あれは、ボクらの社会の成れの果てなんだ。
一方で、東電を糾弾し、一方で、スカイツリーに沸き、リニアを作ろうという。こういう高エネルギー社会、高エントロピー社会を悔い改めることと、今回の事故事件を結び付けなければ、ボクたちはこんなことを繰り返す。
わずか、東に十数キロメートル移動したコンビニでは、冷蔵庫の電気を消している。近所に住む岳父の家では、去年、オール電化に移行した。電力会社のセールスが効いたようだ。
あの3月の、無駄な光がなくなった光景。私たちは、あれでも十分にやっていけたのだ。復興の名のもとに闇を過剰に明るく照らす思惑が再び進行している。ハエを育てて、殺虫剤を売りさばくようなものだ。人生と世界の半分を支配する闇に光を向ければ、どこまでも市場がある。ボクらがやるべきことは、この社会の仕組みを見直すことだ。そんなことはずっと前からわかっていたはずなのに、資源を集中したハイブリッド車が売れ、LEDは隅々まで世界を照らしている。
そう書きながら、ぬくぬくと暖房の部屋でテレビを見ている。フリースを2枚着込んでいるのが、ちょっとしたポーズで、覚悟を装っているようで、いよいよ恥ずかしい。