現ナマで決済

小沢一郎の判決は無罪。イリーガルに録音した取り調べがイリーガルだった何てのは、原発は絶対安全をまるごと信じていたので裏切られたと叫ぶような、どうにも土俵にさえ上がり切れない司直の判断のようでもあるけれど、報道を見ていて違和感が残るのは、まず、金権腐敗からの脱却を目指した政治資金規正法が政治家にとっては全く抑止力になっていないということと、札束が金庫に山積みされて鷲掴みで舎弟にくれてやるような荒っぽいイメージが、やはり、政治家の日常であったことがわかって、また、その政治家の日常は政治家の世界の中では全く問題にもならないくらいに当たり前で、僕らがもつ任侠ドラマのような浮世離れした感覚は、政治的な失墜さえ生まないくらいに普通の光景だとわかったことだ。
今配らなければ議員は全国に散ってしまうから、手元にあった現金を政治団体にかしつけてみんなに現ナマで配ったというんだが、清水の次郎長の時代ならともかく、振替やら何やら手続きは他にもあるだろうと当たり前のように考えるけれど、親分さんから直接いただくのが大切なのか、どこかに残ってしまってはいけないお金だということくらいしか考えられないし、まあ、きっとそうなんだろうと思っておいてもいいのかもしれない。それを政治家として普通のことと言い切ってしまうほど、小沢一郎という人には、政治という商売に長けている才能がよく見える。
時代が逆行するのだろうか。
政治の主体は、主権者たる国民である。国民に対してどんな責任を果たし、どんな覚悟が示せるのか。それが、特別とついてはいるけれど、公務員の役割だ。まさか、特別ではなく、特権なのだろうか。