数が力

大物政治家の復権に向けた動きが少しずつ大きくなっている。むくむくと、何やら啓蟄でも訪れたような蠢き方が報道に流れている。
奇妙なのは、与党内の合意形成に従わないグループの動きのため、与党の代表は野党と連合しなくてはならないのだということだ。その政策は、その政策に対する立場で党派を形成できるほどのもので、反対ならば、いっそ党をわかてばいいようなものだが、反対グループには自分たちこそ党の理念の中心とでもいうような気配がある。そもそも、この政治状況を作ったのは自分たちだということなのだろう。
大物政治家は、選挙に強いと言われている。そうだろう、この政治家には権力を握ることこそ政治であって、元々政策など興味がないのだとさえ思う。だから、いつも風潮に合わせて理念をコロコロ変える。ただし、風潮に合わせるところは徹底していて、その意味ではぶれていない。何よりもぶれていないのは、数こそ力であるという考え方だろう。
この国の基は民主主義の議会政治で、それゆえ、多数派は一定の力を持つことができる。政治の風向きを左右する議席をもつことで、その大物政治家は絶対数の多少にかかわらず政治的な決定権を保持する立場にあった。有権者の選択を重視するのはそれはそれで民主主義として正しい態度だとは思うが、数として十把一絡げになって、そこでは塊になってわだかまる数が、一種の瘤のような性格を有してしまっているようにも思える。
民主主義とは、一人一人の考え方やことばに耳を傾け、一つ一つの政策を選挙によって選ばれた議員によって議論していく仕組みであり、数を持って決着するような仕組みではないのはもとより、議員が主権者である国民に対してどんな覚悟と責任をもつかを言わずもがなの義務として己の矜恃以前に優先する仕組みなのだと考えている。それだけに白紙委任は、ない。大物政治家が、今回の事件に何の責任も感じずに、再び力の政治を強引に進め、その進め方の圧力を政治の力と勘違いしてしまうような事態が、この国の議会制民主主義にとっての悲しい現実になってしまうことに気を病んでいる。
大物政治家のために、泣き出さんばかりに感激する元国民的スポーツ選手を見ていると、なるほど、その競技も国際試合へのわかりにくい選考過程が問題になっていたと振りかえる。
何か最近面倒臭くて、新聞開かなくなった。