潤うのは地元

原発によって、原発立地が潤っているという言い方が一般的になっている。これにはどうも違和感を拭えない。原発立地のリスクを負わず、供給された電力を消費するだけの場所が一番潤って恵まれているんじゃないか。
僕が住んでいる地域の川にはどこにでもダムがあって、ダムは緊急時にすぐに発電量を増やせるので、どこかの誰かたちが暑い暑いとクーラーをかけると、川は天気に関係なく増水する。いや、そんなことよりも、ずっと昔の川を返してくれよと叫ぶ人もいる。確かに、ダムによって洪水の危険から遠ざけられた。だけで、それによって失ったものも多い。失ったものについての責任は、エネルギーの消費地の人たちも、僕らといっしょに負わなくちゃいけないのだと思う。
僕らの社会も、いろいろ事情があったし、何よりもエネルギーを作り出せる自然条件があったこともあって、ダムを永続的に受け入れ、そのことでずっと大昔から継続されてきたいくつもの事柄を壊して回復不能にして、それでもこの社会としてこの選択しかなかったのだと言い聞かせているのに、当のエネルギー消費地の側が取り立てて同様の責任を感じていないのだと知ると、目の前のヘドロの濁流は誰のために生まれて、こうやって土地を陵辱しながら海を目指しているのか、切なくてやりきれなくなる。海に流れ込んだヘドロは見えないけれど、そんな簡単になくなるわけじゃない。
原発事故で放射能というリスクとその対処が極めて難儀な現実を僕らは思い知ったけれども、そんなことはずっと前からあったんだ。
繰り返して叫ぶよ。
原発のことや基地のことで、地元は潤ったとかお金が流れ込んだとか言うのを止めよう。本来は、そのことはみんながわかちあうべきことのはずなんだ。どこかに押し付けて、自分たちだけ知らぬを決め込むならまだしも、誰かが得をしているなどと言っていいはずがない。