原子力発電ということばはおかしい

基本的な懐疑なのだが、考えるほどに、奇妙な感じがまとわりつくものはたくさん、ある。
省電力、省エネルギーのために、何とか涼しもうと、冷たいものを食べて涼感を増そうとする試み。饅頭を冷やして食べる。氷を入れたラーメンを食べる。そこで、なぜ、エントロピーの高いものを選択するのだろう。常温というエネルギーの高度を考えることができない時点で、すでに、ベクトルの転換ができていない。
甚大な資源を集中的に投入するハイブリッドカーに、本当に補助金など渡していいのか。電池を再利用する仕組みをしっかり構築しないまま販売するというのは、クルマなら許されるのだろうか。地球に優しいというのは全くの嘘で、特定の会社に優しいだけなのかもしれないと、どうしても斜めな見方をしてしまいがちだ。それというのも、こうした懐疑は誰もがあっさりと気づくことだからだ。
原子力発電所というと、核分裂のエネルギーを利用して発電するイメージがあるが、当たり前だが、あれは蒸気発電なのだ。水が水蒸気になる時に激しく体積を変化させる。その力を水車に伝えて、その勢いで磁石を回す。お湯を沸かして、水車を回し、昔の自転車みたいに発電モーターを回して電気を取り出している。原子力という言い方は、お湯を沸かす熱源が核分裂によるものだという理屈だ。何の事はない、僕らの社会が昔から使ってきたものとたいして違いはない。最先端の技術を用いる必要があるのは、核分裂を制御し、放射性物質を管理するためで、発電そのものはごく単純な仕組みを一向に成長させていない。ということは、核物質を制御するのはそれほどに厄介なのだ。
お湯を沸かして、機械の動力源とし、汽車を走らせ、織物を作った産業革命以来、僕らはさして変わらぬ仕組みの中で、より厄介で複雑で、処し難いものを何とかして知恵とか、技術とかいうもので制御したつもりになっていたのが、この200年足らずの日々だったのかもしれない。それもこれも、電気という形で利用する限り、どんな蒸気機関かさえも想像しにくくなっている。
風化ということばは、風のように、そのことが取り立てて意識したり、問題にしたりしないようなレベルになることで、悪い意味にも使われるが、自然の中に入り込んでいくよい意味でも使われると、先日、「釜石の奇跡」の大学の先生の講演会で聞いた。なるほど、風というのは僕も好きなことばで、風化って悪くないなと思い直しをさせてもらった。
だけど、懐疑を風化させるのはよくない。懐疑は、違和感、不快感などといっしょに異質を見極める手がかりになると同時に、その地平からあるべき価値観を問い直す根源となる。極めて異質な蒸気機関をどうするのか。この問いかけは、高エントロピー社会のありようの転換を促す異質になれば、高額すぎる代償の、せめてもの対価になるべきだと。