問題は前からあったのだ

3・11以降原発をめぐる環境は激変した。それは異論がない。厄介な仕組みだということが顕在化したのは、大震災がきっかけだ。しかし、激変したのは原発をめぐる環境であって、原発ではない。原発はずっと以前から問題だったのだ。大震災前と大震災後に技術的な限界が明らかになった以外には何も変わっていない。変化したのは信頼感でしかない。
一方で深刻なのは終わっていない事故の方だ。どう収束するのか全く道筋が見えない中で、2030年代にはと、火星旅行にでも行くような途方もない話に聞こえる夢物語。拡散し、定着する放射性物質をどうするのかは、政策上の論戦にならないらしい。この問題が複雑なのは、どうあるべきかという思想の問題とどうするべきかという理念の問題はベクトルを揃えられるのに具体的な行動計画と技術的な問題がうまく整理できないところだろう。やらなければならないことはわかっているが手の付け方が決まっていない。そういうのをぬかるみというが、ぬかるみ踏んでも先に進むべきことはある。
もし、原発を全廃したら光熱費が2倍になるとせんしゅうあたりしきりに喧伝されたが、それが適正な対価ならうけいれるしかない。ことは費用対効果の問題ではないのだ。同時に激しいエネルギー浪費社会をどうするのだろう。構造化する問題こそ政策的な誘導が必要だろう。消費税の増税への転換は、疲弊や負担を増大させても崩壊を避けるという大きなせんたくであった。家計だけの問題ではない。
大きな問題を小さく扱うことで、それを生活者の視線、たちばというなら、それを迎合主義というのだ。
昨晩、従弟と話をしていて、集合住宅やアパートなどでは、PHVが使えないという。なるほど、その通りだ。走りながら充電する以外に電気をストックする手段はない。エコという簡単な言葉で片付けてしまえるほど、人の生活は単純じゃないということだな。