首長選挙の投票率

この国は国民主権の国で、民主主義の議会政治を旨としている。首班は間接民主制が取られて、民選の下院優先で決められる。一方、地方自治体の首長は直接選挙によって決められ、大統領制に近い。国政と地方政治というよりは、生活に近い案件が生活者である市民の主権行使によって直接決められる仕組みを採用している。
国の政治が如何の斯うのと喧しく言いながら、40パーセントに満たない投票率は、これは政治家の責任ではない。主権者の主権放棄に近い暴挙だとも思える。議会制民主主義という社会の形を採用していて、選挙では何も変わらぬ、自分の投票で何も動かないなどという意見は既に市民の資格を自ら放棄し、この社会の構成員の一人としての責任を果たしていない。政治家が悪いと叫んでも、その表現方法以外の手段を取るならば、一揆か、打ちこわしか、そういう手段しかないのだ。あるいは、デモか。しかし、私たちの社会には、議論が閉ざされてはおらず、また、行使できる権利もある。それを棄てて作り出す社会への意見表明は空々しくもある。
県都などと自らを気取る県庁所在地の投票率はもはや20パーセント台目前。学力調査などの指標に浮かれ、慌てふためくくらいなら、この数字をもっと深刻に考えよう。子どもたちは真剣だ。早く投票権が欲しいと願う。社会への具体的な参画と、社会が意志を作り、その意志が新しい社会を決めることを学習している。
その熱がどこかで冷めていくのだとしたら、その原因は学校にはない。主権者の約3割だけの主体的な意志だけで権力を白紙委任してしまう危険を、原発が安全だと騙されていたことを嘆くより以前に、切実に感じなければならない。
感じるのは誰だろう。