スポーツ特番はどこか変だ

今年ばかりは、スポーツ特番に目を向けられない。いつからこんなことになったのだろう。気持ちが悪くて仕方がない。そんなところがスポーツの面白さなんだろうか。順位が好きなだけだろう。きっと、そうに違いない。
仲間のためにがんばった。
仲間がいたから勝てた。
団体戦だから、力が出た。
チーム力のおかげ。
気合さえあれば、学校はよくなる、教育はよくなると、気合で子どもたちを抑制しまくっていたどこかの先生みたいなものだ。根拠がないわけではないが、そればかり見せられると、全く、ただの成功物語で終わってしまう。
長野五輪のあと、世界の頂点に立ち続けた清水宏保は、内観、内省、哲学とも思えるような言説を吐きまくっていた。身体性と言語。理性と肉体とも思えるような両者の位相をどうやってつなぐのかを模索している言葉の動きが面白かった。言葉に表すことが目的ではない。人に説明することも目的ではない。言葉で示すのは、肉体感覚やメタレベルで展開する形而上のスポーツ、メタレベルの身体をどう輪郭をもって描き出すかという課題をもっているからだ。言葉で定着することで、身体は意味を知り、再現を容易にする。500mを33秒で描けたときにようやく身体は33秒を知る、そういう言い方はちゃちかもしれないが。清水が目指したものはそんなところにあったと思う。
イチローの言説は少し違う。清水がどんな身体表現を伴おうと最速を目指せばいいのに対し、イチロー表現者としての身体を要求される。観客なしにはあり得ないアスリートなのだ。それゆえ、内側に入りつつも、どうしても俯瞰した空間で動く身体を頭の裏側の方から見つめる必要がある。だから、イチローはバットとボールが接触する瞬間の話などしない。
船木は、小橋は、中村憲剛に見えている一本の筋は、などと語ればきりがない。湯浅が記憶していない17旗門は、ああスポーツは何とか素晴らしいのだろう。
スポーツ特番が語っている仲間とは、実のところ、気合や心得、気構えである。メンタル、と呼ばれるところが日本選手の弱点で、技術が長所と、長いこと語られてきた。そのメンタルを、仲間とは共有した気持ちで超克を果たした。そんなところか。
つまらん。全くつまらん。
みんなでソーラン節踊ったら不良がいなくなったみたいに、安直な帰結はすでにジャーナリズムの体をなしていない。
一流のアスリートには、何が見えているのか。何を感じているのか。そこには、人としてのどんな能力があって、そのことが信じられない物語をどう紡ぐのか。
仲間とつながりあうだけで叶えられる夢なら、とっくに叶っているさ。
こうやって、この国はまたしてもストラテジーなき体当たり優先社会になっていくのか。