教育的な体罰

学校教育法は、児童生徒への懲戒を認めているが、体罰を禁止している。平成19年に文部科学省は見解を発表し、例えば、こういうのは体罰だと示した。荒れる学校を抑えるため、ある程度の厳しい指導は必要との考えが背景にあったらしい。
それによると、肉体的な苦痛を伴うものは体罰で、そうでない懲戒的な行為は許容の範囲という。授業中立たせるのは大丈夫だが、正座は体罰になる。懲罰として清掃させるのはいいが、教室外に立たせるのはダメ。繰り返して当番活動を行うのはいい、などと細かい。カツオくんが廊下に立たされるのは体罰で、罰で掃除させられるのはいいらしい。
今回の事件で、義家政務官は、「教育的な体罰」ということばを使っている。事件は、プレー上のミスに対するもので、懲罰とは異なり、一方的な暴力と考えるという論脈は首肯できる。
学校の先生が実行する懲罰は、大抵、まず、規則を勝手に先生が作り、その規則を破ったものに後から懲罰の基準と適用が示され、先生自ら懲罰を実行するという、冷静に考えるとなかなか権力の専横が著しい。尤も、宿題を忘れたことにまで、いちいち司直を設定するのはどうかと思うが、少なくとも、懲罰の基準くらいは子どもに示しておくべきだと思う。
平成19年の見解では、体罰の禁止を前提にした上で、体罰になる範囲を、おそらく従来の解釈を少し緩和したように思われる。そこでは、この程度の身体的な懲戒については、体罰とまでは言えないと、体罰とそうでないものを区分する基準を示したものと考えていいだろう。
ところが、義家発言は、体罰には、教育的なものと、単に暴力となるものがあると言っているわけで、そのあたりの整合性がよく見えてこない。体罰の適用範囲を示して、体罰については、やはり禁止だという文脈と合ってない。
教育的な配慮を欠く、指導的な要素がなかったり、あるいは、指導の効果が見込めない体罰は、今回の事件とは無関係に、ずっと以前から暴力であった。ところが、義家発言では、教育上の配慮があるならば体罰が容認されるかの印象がある。報道によるものなので印象としか言えないが、堰が一気に破れたようにさえ思える。
なのに、世間は実に鈍感だ。その落差に実は最も驚いている。隣国への懲罰的な武力行使なら構わない、相手がルール違反なら攻撃も甘んじて遂行すべきだという考え方とどこか方向を同じくするように思えて、非常に不気味だ。