議論という仕事

判断を疎うて何が管理職だろうと感じることがある。
煩わしいほどに、次々と判断を求められることがあるが、熟慮の暇もなく即決を繰り返す。そういう毎日にあって、自分が何を基準にしているのだろうと思い立つ瞬間がある。
所詮、公正な判断というのは、その人がもつ公正という正義に基づいているのであって、一般解のように表現していても畢竟己の範囲をそうは逸脱しない。逸脱する判断に決定など与えられようはずもなく、公正など見せかけに過ぎない。
そうすると、我と我が身のもつ自己のありようを手がかりにする以外にないと思える。
前例、マジョリティと根拠にすることが最も嫌いである。
そういう生き方は、きっと疎んじられているのだろうと思うが、判断から逃げて疎んじられるよりは随分ましである。
こう考えているものだから立場と個が逆立しない。組織と個人というあたりで疎外感を感じないあたりが、ボクの長所であり、最も克服しにくい課題でもある。乗り越える気もないけれど。