あしらい半分

戸隠にそばの名店、うずら家がある。
この店で修行した後輩が店をもっているということもあって、戸隠を訪ねるとしばしばそばを頂戴しに行く。
祖父も好きだったそうで、交通の便が悪い時分でもわざわざ東京の帰りに立ち寄ったらしい。さらに、糸魚川の泉家にも寄るという念のいれようだったそうだ。無論、無類のそば好きであった父も同じ。僕もそうなのは、因業に近い。
そばがうまいのはもちろんだが、いつも行列のできるお店でお客さんをにこやかにあしらう亭主がいい。明るく、いいそばへの期待が膨らむ。店にはいると押し付けがましくない程度の識ごとなどがあり、それはそれで時々に書き換えられているようでもある。
修行にはいるとすぐに玉をいじらせてもらうらしい。打ったとまで言わないまでも、自分がふれたそばを食する客の姿を見せるそうだ。客あっての蕎麦屋。そのことがしっかりと染み付いているのは、客がわざわざ足を運ばねばならない戸隠故か。
同様に亭主は、あしらい半分と言われるそうだ。どんなにそばが良くても、あしらいが悪ければ半分にしかならない。決して教育のことを学んでいる人ではないと思うが、よい職人は時として専門職の教師に勝る教育者になる。
僕も週末や休日などに子どもや親子、最近は大人の人に遊びを教えることも多い。いや、まったく達人でもなく、技術もたかがしれていて、僕以上に指導の技術を持っている人はいくらもある。そばだって、釣りだって、スキーだって、自分がちゃんとできないくせに教えているわけで、それでもいくらか通用する部分があって、それがなんだろうと思っているところがあった。
昨日、うずら家でそばを食べながらはっとした。そうか、あしらいで成立しているのだ。僕と子どもや親子、大人の人たちとのやりとりで成立するところに、実は、僕自身が機能する理由があるのだ。実は、案外それしかないのだが、教える人、教わる人との関係をまず成立させることを問題にしていて、教育技術みたいなものは二の次。知るとことよりも感じることを優先して、動いた心の表情に敏感に反応する。心の振幅を拡大してあげることで、きっとその人の感情をよい方向に変えるのだろう。
また、蕎麦屋に教えてもらった。
あしらい半分、あしらい五割。どんなことばだったかな、はっきり覚えていないけれど、そんなような感じだった。あしらい半分が響きがいいな。