公共と価値基準

今日は、雨と風が強くなって、どうやら電車などは運休やら遅延がずいぶんとあったらしい。春から電車で通勤しているので、そのあたりが気になる。
一昨日の帰宅時に乗り合わせた、こちらもこの春から通学に電車を使うようになった女性の集団が、なかなか賑やかに話をしている。相当に大きな声だが、居酒屋程度というくらいには感じる。友達といろいろな話をすることはよくあって、入眠しにくいくらいで後はそれほどには目くじらを立ててこんなところに書くほどのことはない。
車掌は通りかかって注意をして、ほんの一瞬だけ声が小さくなり、それから「そんなに大きな声だったっけ」と無自覚で辺りを驚かす発言をしたことも、「そんなことないよ」と同調した人がいたのも、変な言い方だが織り込み済みで、そこに頓着するくらいなら最初からあんな態度はとらないだろう。
ただ、考えることは、ある。態度そのものをいちいち咎めないが、その節操ない態度がどこから出て、彼女らが無自覚にいられるメンタリティがどう形成されたかというあたりに、ちょっと考え込んでしまった。優先席に平然と座っていたこともあるかもしれない。
公共ということがこれだけ言われるようになっても、この駅の利用者は列に並んで乗車することもなく、立っている人がいても座席に荷物を置くような有様なので、何かがおかしいのだろう。嘆くよりもそれをどんな風にいい方向に変えられるかを目を閉じて眠ろうとしながら考えていた。
それだけのことなら書こうとしなかったが、別の件がまた気になった。
今日みたいに天候が悪くて電車が止まった。止まった電車の空気が沈滞していたのかふいに外国人の方が手にしたギターを演奏し始めたという。そういう動画が動画サイトに流れていて、それを良しとする意見も多かった。
女性たちの会話が迷惑行為で、この外国人の方の行為はその場を盛り上げるからいいという論調は容易に想像できる。それでいいのかということなのだ。
外国人、ギター、音楽、けっこう上手。そういうシチュエーションが容認されて、他愛ない、しかし、大音量のガールズトークが蔑まれるのはどこかに強烈なバイアスがかかっていないか。
時々、こうしたことで、僕らが情報を歪めて受け取ってしまうことがある。良と叫ぶ多数派に、是非の問題が遠ざけられることがあるのだ。
電車に乗るのがとても苦痛だという人たちがいる。パニック障害などはよく知られている。田舎者にはどこを走っているかわからない地下鉄などは不安の塊だ。必死で周りの挙動を拾いながら自分がどう処すればよいかをシミュレーションしている。
公共とは、最も弱い立場の人について常に考慮しておくという態度のことだ。自分がもっている価値基準よりも先に適用すべきは、公共だと思う。それゆえ、誰もが了解できる。好悪を基準に持ち込むことはいよいよもってのほかだ。
いつやるか、今でしょのようなノリで突き進むのは、定置網に引っかかる魚のようなものだ。習性以上の行動が取れない。