泣き虫ハァちゃん

河合隼雄は、ユング心理学の臨床心理学者であることは知っているし、文化庁長官として、「文化力(チカラ)」を合言葉によい仕事をした人だということ。そして、大変に平易でわかりやすく奥の深い文章を書く人だということは知っていたが、これまで本を手に取ることはなかった。
理由は簡単だ。僕は、心理学というものをどこか疎ましく思ってきた。学生の頃も嫌いだったし、何を勉強しているのかさっぱりわからなかった。そんな理論などなくても、僕らは人に向き合えるし、心理ゲームのようなものの胡散臭さには酒席の話題以上の興味はなく、人を類型できるような傲慢さには辟易以外の感情をもっていなかった。
僕のどこにそんな齟齬が生じたのだろう。心理学についての勘違いと、実は、自分がやってきたことが臨床心理のふるまいであったことに気づいたのは、悔しいことにごく最近である。
この本のイラストを描いた岡田知子さんのご縁で、いただいた本なのだが、妹の命日である今日読んだのもまた、強烈な縁としか言いようがない。
幼い頃のことを思い出すと、いくつもいくつも体がこわばることがある。特別な体験かもしれないが、その体験を人と比較する術をもたないし、比較は無意味だ。ただ、僕自身の心と体を時々束縛するがそこから逃れられないという覚悟だけを時々に決意のように刻み込むしかない。僕は多分に自省的で、悔いを残し、いつまでも拘泥したままそこに足をずぶずぶのめり込ませながらも何とか前を向いてきた。心から笑ったことなどあったのだろうか。
ハァちゃんの姿は、自分と二重写しになってくる。泣き虫で、負けず嫌いで、それでいてどこかズルいところがあって、人を見て判断しながら自分の処し方を決めている。むろん、僕はハァちゃんほど出来はよくないし、何より、人のいうことを鵜呑みにすることなどない偏屈である。それゆえ、未完であるが、ゆくゆくのハァちゃんになれようはずもなく、ルサンチマンにまみれて、今日も、今も、きっと明日もこれからものたうちまわり、もがく。その姿を人に悟られぬよう格好だけはつけながら。
この本を手にいれた時、現在の境遇など予想だにしなかった。運命はかく扉を叩くのだ。人に寄り添うことの大切さ、そして、人の物語にを共有することの大切さを、これまでとは別のステージで体験できる幸せを感じさせられた一冊。
妹が好きだったおはぎを母が作ってくれた。食べすぎるほど食べても、何も変えられない。それでも、ちゃんと全部食べようと思った。そうしたいというよりも、そうすべきだと思っている自分を少しばかり離れてみると、したいようにすればいいと、誰かに囁かれたように思えた。
岡田知子さんの優しい水彩画がとても印象的だ。岡田さんのふるさとの風景にも見える。
いくつしみたくなる本をありがとう。

泣き虫ハァちゃん (新潮文庫)

泣き虫ハァちゃん (新潮文庫)