平成お徒歩日記

目的地があって歩くのを移動。歩くことそのものを目的にするのを散歩。と、とりあえず分けてみた。15年くらい前に書かれたこの本が、まったくおもしろくないのは、前者を徒歩でやっているからだろう。
現在、町歩きはひとつのスタイルとして、それぞれが工夫して楽しめる遊びとしても、哲学的な逍遥としても成立している。歩くことで見えてくる様々な風景が特有の視座で語られるのは、ブラタモリを待つまでもなく多くの人々の表現が残っている。
だから、この本もこれほどのハズレとは思いもよらなかった。
宮部みゆきの時代物は好物の方で、絶妙な語り口と描写から、その宮部みゆきが、例えば、忠臣蔵、例えば、小塚原、例えば、桜田門を歩くのは、さぞかしおもしろかろうと2割も減俸をくらったその日になけなしの銭を切って買ったのだ。
読んでいて腹立たしくなるのはどういうわけだろう。歩いている人を低くみているわけではないが、移動手段としての徒歩について、そして、そのことから生じる特有の時間感覚や風景についてまったく無頓着で、内省することもなく、よって語り口は後悔ダラダラで歩いて苦労しているワタシを積極的に描いているばかり。目的地がありながら下調べもなくルートを設定せず、それでいて行き当たりばったりの楽しみを受け入れるわけでもなく。少なくとも現在の地図と対照する試みをしておかないと、パースペクティブは開かない。
もったいないので、少しでも何か拾えないかと読み進めると少しだけいいところがあった。

住民個々の記憶を超えた、土地の歴史と土地の記憶は、そこに入れ替わり立ち替わり出入りし、生きたり死んだり争ったり泣いたり殺したり殺されたりしてきた人間のなかの闇の部分を中和する力を持っています。
とりわけ感じやすく自分を見失いやすい子供たちには、こうした、そこにいけば安心して「魔」を放散することのできる、「魔」を吸収してくれる場所が、どうしても必要なのではないでしょうか。

神戸の中学生による少年殺人事件を受けてのことば。どうしてこういう感覚を持っていて、こんなつまらない町歩きにしかならないのだろう。連載当時好評だったというのも解せない。読者層からすれば少し若かった宮部みゆきはアイドル的なものだったのか。それにしてもひどい。
文庫版のあとがきでも後悔していない。後悔して書き直して欲しいものです。しかし、15年の間に、僕らは徒歩という価値観をすっかり充実させたとも言えるので、それを確認するということであれば、まあ、500円くらいは投資か。

平成お徒歩日記 (新潮文庫)

平成お徒歩日記 (新潮文庫)