世界遺産という歪み

富士山が世界遺産に登録されたというので、奇妙な話題が出てきた。世界遺産の富士山には、ブラックバスが似合わないというのだ。こういうことを本気で考える、いや、考えるのは勝手か、本気で主張する人がいるのが不思議でならない。
ブラックバスの拡散と定着には議論があって、問題もあり、法律的に対応したこともあるというのは当然の話なのだが、世界遺産に似合う似合わないの議論というのが奇妙なのだ。日本の観光地はそうやってどこもおかしくなっていく。いくらでも思い出せる。
ひっそりと山間に開けた鄙の里が話題になってたくさんの観光客がくるようになると、建物がいびつに建て替えられたり、下劣な看板が連なったり、その場所の価値を理解できない観光客が便所ひとつもろくにないなどと叫んだりののしったり。
ボクは相対的な価値ということに妙にからむ性格を持っていて、日本海側のことを裏日本と呼ばれたことに反応して、太平洋時代が来るまではこっちが表日本だと反撃すること自体が嫌いなのだ。オモテウラという価値観の中で議論を続けることは相対性にはまっていて、自身の価値を見失う。世界遺産という勲章をもらうと、いろいろな問題の突破にその方便が用いられて、水戸黄門の印籠のようなご威光にひれ伏してしまわなくてはならないことも出てくる。そういうのが一番嫌いなのだ。ことは善悪でも良否でもなく、好悪だ。嫌いなのだ。甚だしく嫌悪している。
子どもたちに自分の町のことを聞いてみるがいい。何があったらいいと思うとでも聞こう。すると、有名全国チェーンの名前がずらずら並ぶ。そんなものが並んでいると町の価値が上がったように思うのは、明らかに価値観の歪みだ。どこで何をしたかよりも、どこに行ったか、何を知っているかが優先する社会はつまらない。
名前もないような田んぼの畔に座る。遠くに近くに見えるものを感じ、考える。そこから始まる哲学を失ってから何年になるのだろう。自己尊厳を高めるために、他国を罵り、ワッペンやら勲章やらをいただいて、ランキングやらデータやらで武装する安っぽい社会には、失望以前に関心を失って、こうやってくどくど書くことすら、本当いうと面倒くさい。