自主学習

学力論争があって、いじめ問題があって、体罰が社会問題化し、学力のプライオリティが低下した感じがするのは、メディアが一律に物事を報道するからかなとも思っていて、経済状況の好転がどこでどうなって現れているのかわからないまま、以前の問題がそのまま取り残されたままで選挙の争点にもならずに、党首たちが一体何の論争をしているのかもよくわからないままに、休日の朝がすぎていきます。
ふと、目に止まったのが、自主学習。学力論争から宿題以外に取り組ませる課題という意味らしいのですが、「自主学習」ということばの奇妙さに立ち止まってしまいました。与えられた学習ではないという意味なんだろうけれど、「自主」的ではない学習と、「自主」的な学習があって、「自主学習」という課題が与えられているというあたりに違和感満載です。
ちょっと調べてみると、「宿題」の方は内容が示されるのに対して、「自主学習」の方は、自分で内容を決めて取り組むのだそうで、それは何でもよいのだそうです。「自主学習ノート」とかを使って「宿題」と同じように提出するようですが、そのノートにはある日は漢字の練習、ある日は計算練習、ある日はイラストが書かれていたり、鉄道の路線名とかでもいいみたいですね。なるほど、カテゴリーフリーの宿題ってことなんだ。学習する習慣をつけることが目的なのか、いろんなことを勉強して欲しいということなのかわかりませんが、いずれにせよ、子どもの頃の僕ならやらなかった。
もともと学習などは自主的なものだろうし、宿題に魅力がない以上に「強制された自主性を求められる宿題」などに魅力があろうはずもなく、同じノートにいろんなものが詰め込まれて、先生のペンいれやハンコがおされているなんておそろしく気持ちが悪い。その無神経さに気づかぬほど、教師って無邪気なんでしょうか。その無邪気に傷つく精神もあるだろうな。
本当にやりたい勉強は先生に見せないかもしれない。知的好奇心を過小評価していると、誰かに見つけてもらったり序列化されないと達成感も意欲ももてない人になるんじゃないでしょうか。積極的な動機付けも行きすぎたり、構造化をしくじると内心の発動に不従順なつまらん人になっちゃうぞ。きっとそういう人は釣りをしないと思います。
でも、先生たちって、真面目で本気で奇妙なことに対しても熱心だよね。