和食文化

和食が文化遺産として認められるというので、世界中の人々に認めてもらおうと、例えば、豆腐にオリーブオイルをかけたり、バルサミコ酢で鯛を焼いたりという工夫がなされている。富士山の世界遺産登録もそうなのだが、どうもこういう価値の相対化によって生じる差異にびんかんなのが、僕らの社会らしい。基本的に、隣の芝生が綺麗だと感じるのと同じだ。うらやましくて背伸びしているだけなら背伸びに疲れれば済むのだが、和食の例では困ったことに何が価値として認められたのかをろくすっぽわかりもしないまま、何かに迎合していく。世界の人々に食べてもらうために、どこの国だかわからない料理を創造してしまうのも芸当といえば芸当だが、そのままで変わらない、矜恃の持ち様だけを少し高くしてみるというくらいの話なのだ。相手に合わせたようなふりをするのがおもてなしと思っている人さえある。
思えば、こんなことを繰り返してきた。何かに認められるとやにわにいろいろなものの仕様を変えてしまう。新幹線がやってくるというので、街を作り変える。いったい、何のためなんだろう。まつりをしようという。何を祭るのだろう。盛り上がろう、わき上がろうとする気持ちは何に呼応してどこに向かおうとするのだろう。どこかに吸い上げられて行くように疲弊していくくらしもある。所詮、くらしのグランドデザインさえどこかと相対化してしか決められないのだ。
学力学習状況調査だってそうなんだ。相対的な序列はわかった。では、その学年としてどれだけのことが身についていたら及第点なのか。それを示さないために、課題は平均点と順位のみ。なるほど、AKBの自作自演の序列合戦に沸き返るわけだ。
豆腐が本物の豆腐になること。それが、和食文化を守るということだ。それにオリーブオイルかけて食べてもいいけれど、その点だけは崩しようがない。そして、その豆腐は移ろう。移ろうけれども、大豆とニガリを使って、あるいは、蕎麦のつなぎに布海苔が用いられたように何か他のものが加わってもいいのだが、原材料と補助材料が、たとえば、凝固剤などを用いることなく作られることが文化である。
町づくりのワークショップなどの様子を見ていても、みんなが盛り上がるためにどうするか、そんな議論ばかりで辟易する。ここがどんな場所で、どんな人がどんなくらしをしていて、どう生きていこうとしているかを真正面から議論しているのか疑っている。
その議論は、和食にも当てはまる。相対化された価値ではない。そのものの価値を見つめることこそ、最初の仕事なのだが、ずっとそれは先延ばしにされて、いよいよ浮き足立っている。