学力を捉え直しするとするなら

ある原稿を見ているうちにフツフツと沸き起こってきたことばがある。原稿は、学力学習状況調査にかかるものなのだが、平均点を上昇させるために何をするのかを問いかけるものであった。
その調査について平均点を上昇させることは、目標としてそれほどに違和感がない。それは、正答率を上げることで子どもたちにとっても歪みが生じるわけでもないだろう。気になるのは、平均点で示された全国順位の方だ。この順位を上昇させることにどんな目標を設定すればよいのだろうか。ちょっとだけ考えても、こういうところに目標を置くことの難しさがよくわかる。その難しさゆえにおそらくは歪みのいくつかも生じよう。
困ったものだな。子どもが新しいことを知る、わかるという喜びはどこにいったんだろう。学校はそういう学びのステージなのだと考えていたら、そのことも少し違うように思えてきた。
自分のことを話すとどうにも気持ちが落ち着かないが書いてみる。とかく、奇妙なことをよく知っていると人から言われる。多くは役に立たない無駄知識で、歩くトリビアと呼ばれたこともある。昨年はとりわけそんな機会が多く、そのうちに、試験にもできないことをよく覚えようとするね、と言われて気づいた。知識にもプライオリティがあって、それは、試験だの受験だのに結びついて序列化されているらしいのだ。限られた脳のキャパシティの中で、僕が知っているものは優先権の低いものゆえ、多くの人々は記憶しようともしていないらしい。
同時に、覚えようという意図が自分にないこともはっきりしてきた。何か自分の心を動かす事象にであった時、それが何かを見つけ、自分の経験などに照らして考えることをしている。知識として知っているわけではなく、考える手がかりとして知識を用いているらしいのだ。
知ることは感じることの半分も重要ではないと書いたのはレイチェル・カーソンだ。ここ20年くらい大切にしてきたことばだが、知ることの大切さも一方では自分の中には強くあって、知ることによって感じ方が広がる体験もたくさんある。いや、カーソンが言っているのは、感じることのない知るという営みのことを指しているのだろう。
やにわに、感じる、気づくということばが優先してきた。どうやら、僕はそこを手がかりにしてきたのだろう。自分の方法が学力の中心とは言えない。しかし、僕のようなアプローチを誰が担保してくれるのだろう。今、言われている学力は、知る、わかるから、その応用という姿である。僕の思考の形には基礎も応用もない。目の前にあることを見つめて、感じ、気づくことを手がかりにして考え、そこから、知ることやわかることを確かにしている。
暮れになって急激に広がってきたこの境地を少し徹底してみようと、三が日の終わりにみつめているのであった。