神代温泉・氷見市

冷たい雨が降り出した冬の初め。どこかよく温まるお湯に浸かりたくて、氷見まで出かけた。
氷見はいい温泉がずいぶんある。以前はそうではなかったのだが、岩井戸温泉が出て、以来、けっこう方々で湧き上がったのである。今やおいしい魚を食べさせ、そのうえ、温泉があり、中山間地という立地を生かして、山のもの、野のもの、海のものなど美味いもの尽くしの感がある。
今日の目的地は、神代温泉。こうじろと発音する。高岡市との境にある小さな温泉らしい。僕は、鄙びたところが好きで、人が小さくそれでいて一生懸命でもなく、脱力もせずくらしているさまが大好きだ。厚化粧し、去勢を張ってよく見せようとするさまにはどうにも気恥ずかしさが先立つ。
つげ義春が氷見漁港を訪ねた文がある。「北陸雪中旅」に収められた一節を紹介する。

いまがイカイワシの最盛期だということだったが、船も小さいし、港も小さい。だから市も小さい。1ぴきのタコを囲んで「ホンジャーホンジャー」とやったりしているのである。(この文章は、大崎紀夫によるものらしい)

学生の頃、この文章を読んだ。富山湾を挟んで対岸にある街をみすぼらしく書かれたようで少し残念な気持ちになったのを覚えている。今、読み返してみると、浅薄な印象に動揺していた自分を感じてさえいる。つげ義春は、気に入っていたのだ。たぶん、今の氷見ではだめだろう。観光バスが乗り付けるほど賑やかで、華やかな売り声につられて多くの人が楽しんでいる。
神代温泉は、たぶん、つげが心を動かした氷見を残している。ネットで見ると、何でも石油を掘ろうとして出てきたお湯でやけに温まるという。日本中の温泉をご夫妻で訪ねて歩く方の探訪記には、お湯がいっぱいになる前に入れてもらってほかのお客さんもいなかったので、ご夫妻で入れていただいたとある。腰までしか浸かっていないのに逆上せてしまったともある。飾らないけれど、どこか、何かしようとした感のある沸き立った後悔を含んだような温泉の表情は、大きく期待を寄せる。
途上、新湊の内川という場所を訪ねた。漁師町の風景を生かしてまちづくりを進めている。お洒落なカフェもあって、富山の人気スポットになっている。冷たい雨の中であまり人もいなかったが、ずいぶん町の様子も元気が出ているような様子もあった。
そこから20分ほどで、温泉に向かう。町境の道路を山に入ると産業廃棄物やラブホテルが並ぶ。いかにもという界隈に、どこか落ち着いた気持ちと、そこにもお風呂はあろうにと思いついて、ちょっと照れる。
細い道に簡単な看板を見つけた。集落のどんづまりにその温泉はあった。予想通りである。開湯当時の思いと、それを続けることの困難を同時の今の姿に反映した、よい姿である。
内川でお金を使いすぎて所持金が1000円しかないことに気づいた。うっかり、ラブホテルなど入らなくてよかった。この温泉も600円ならダメである。そっと聞きに行った。ガラスの引き戸を開けて訪いの声を出した。素朴で人の良さそうな奥さんが出てきて、500円だと答えてくれた。安心して妻を呼び、玄関を上がる。今いた奥さんがいない。奥からどたどたとした音が響き、慌てた様子で出て来られた。
うちの温泉は、源泉をそのまま入れているので、温度の調整が効きにくく寒くなったこの頃は少し湯温が低い。湯は濁っている。湯花が多いので、気にされないかなどと説明される。一通り聞いてから、お湯を案内される。いくつかの部屋はすっかり使っていない様子。二階に上がる階段も物がおかれて客を上げている風はない。こういうところでぼんやり本でも読むのは贅沢だろうなあなどと思いながら、少し傾斜した廊下を歩く。
脱衣所には、ファンヒーター。なるほど、これを点けに走ったわけだ。お風呂には僕一人。女湯との境も簡単な仕切りだけ。思った通りの風情である。にやにやしている自分に気づく。
湯船は半円形。水道管の湯口からどぼどぼ湯が落ちている。掛け湯をすると、もうお湯の良さが伝わる。足からゆっくりと浸かり、温まってきてから湯口に手を入れる。そのあたりは少し深くなっていて肩まで十分に浸かれる。
女湯で音がしている。仕切りの向こうに妻が入っているのだが、他にも客はいまいとちょいといたずら心で覗いてしまおうと思ったら、何か焦ったのか石で足を滑らす。それで、なんとなく間が悪くて、諦める。
ぼーっと時間を過ごす。浸みてくる、浸みてくる。女湯でも音がなくなった。きっとのびているに違いない。ちょっと、想像してしまう。
すっかり温まって熱を冷ましながら服を着る。少し濡れているだけであとからあとから汗になる。出ると廊下に妻がいた。
「誰かいた?」「俺だけ」「そう。こっちは一人先におられて」
何だ危ないところだった。
ロビーにドライヤーが置いてある。どうぞといわれ、ソファに座る。ほうじ茶を出してもらう。少し甘く濃い目で。上等でないのがまた具合がいい。いいお風呂ですねと話すと、維持するので精一杯でと話される。十分にいただきましたと告げ、雨の中クルマに戻る。入れ違いに、すらっとした様子のいい女性がはいってきた。駐車場にクルマがなく、家人と知れる。女性のブーツがなかなか素敵で目に映った。
また、来たくなってしまったと、つげっぽい落ちになった。