ひもじい思い

富山駅の周辺で寝起きしていた方がおとといの朝、冷たくなっているのを発見された。地下道にうずくまるようにして、時々地上でカップラーメンをすすっている姿を見かけていた。足が悪いらしく膝を伸ばしたままで、時々、毛布をかけてどこに目を合わせるわけでなく、いや、人と目を合わせないようにして、ずっと佇んでおられた。
学生の頃、お金がなかったわけではなかったのだがひもじかった。使い方がおかしいのだ。どこか偏っていて、日々の食事に費やすものがない。仕方がないので河原で瓶を拾ってはきれいに洗って酒屋に引き取ってもらった。それで何とか100円くらいの金を作って、大学の食堂で白飯を食べていた。生協のおばちゃんが、「中にしときなよ。大盛りにしてあげるから」とささやいてくれる。それで10円浮く。そういう学生は、僕だけではなかった。
たまに酒をおごってもらうと、そのまま駅で眠った。途中、どこかのお店の裏側で段ボールを入手して、それを地面に引いて横たわるとけっこう寝れるものだ。駅には、指を粗相で落としてしまったやくざ者や500円ばあちゃんと呼ばれる、今、思い出せばせいぜい40代と思える少し艶の残った女性がいた。指が2本残った人は、右3本、左2本の5本の人の先輩らしく、いろいろ指図を受け叱責を受けていた。時々、拾ったアタリメなどを「にいちゃん、食うか」と誘ってもらえる。お金もないし、家もないのだけれど、屋根がある、人がいるという暮らしが小さく暖かな光を持つ瞬間だった。やがて、時代はバブルという浮かれた季節に入り込み、僕はそういう流れからも遠い場所で暮らしていた。
新聞に小さく掲載されたおじさんが亡くなった記事に、たまらなく哀切を感じた。いつも、もしかしたら、僕はそのおじさんのように暮らしていたかもしれないのだと感じていたのだ。その感覚はだれにもあるのだろうと思っていて、手を伸ばせない自分自身をまったく不甲斐なく、情けなく、それでいて、気持ちを切るわけにもいかなかった。そんなことがどの人にも起きていると、実は楽天的に信じ込んでいた。だから、記事にもなっている。まったく好きになれない地元新聞だが、こんな記事を載せられるほどではあったらしい。
ところが、バブルの真っ只中で学生時代を過ごした同僚と話していて飛び出した言葉に驚いた。
「ひもじい思いをしたことがない」
立派なご家庭だったのだろう。しかし、彼に切なさを片鱗も感じなかったのは、そのせいだったのだろう。人が1日1日を愛しく感じるのは、根底にあるそうした思いへの共感ではないのか。対人援助職にあるものは、その風景を持っていなければならないと考えていた自分の前提が瓦解したようで、そちらの方に揺れている。
おじさんは何を見ていたのだろうと、雪の通りでしゃがんでみた。そうか、おじさん、青空を探していたんだ。鉛色の雲から見える最初の青空はおじさんが見つけていたんだ。その愛しさは、彼にはわかるまい。悔しいが、それが育ち、経験ということだ。