議論ベタになった

新聞の質の低下がまるでジャーナリズムの後退のように言われているけれども、その実は、議論ベタという背景に支えられた表現ではないかと考えている。
どう考えてもおかしい。そんなわけはない。なぜそう考えられるのか。そうしたフレーズが飛び交う。議論を一回りさせた挙句、問題をリセットしてしまうかのような言説で括ってしまうなど、かみ合わないというよりはすでにリングに上がってさえこないような問いそのものが共有されていない話し合いが繰り返される。そのうえ、雪崩をうったような勝ち馬に乗ったフォローばかりが強調されて、問題を深化させることなく、話し合いは平行線どころか一方的な決着で終始する。
何が変わったのだろうか。想像力の欠如ということをずっと以前から考えていたが、人がその想像力を失う故がつかめない。なぜなら、人は想像力によって文化を築いている。その営みを放棄した時に、本能から疎外された文化を失うはずなのだ。
キーコンピテンシーは、問いを共有できる力ではないのかと、このところ急速に収斂しつつある思考の手応えがある。この方向でもう少し考えてみたい。