価値評価の軸

どう考えてもわからない、全く理解できない、などの言い方が乱暴に交わされて対立点による是非ばかりが際立つ幼稚な議論が覆っている様子はどうにも気持ち悪くて仕方がない。もしかすると、白黒付けていくディベートなんかが随分流行った影響があるのではないかとも考えることがある。
ディベートは議論の技術なのだが、根本的な欠陥は、テーマ自体が参加者による問いから発していないことだ。僕は、学びとか教育とかいったときに、今、流行しているアクティブ・ラーニングなんて言葉をもってくるまでもなく、問いの共有こそが本質だと考えている。問いがないところには探求も、追求もないわけだ。問いが主体性に確保されていることが、学びを担保する唯一のエビデンスと考えているのだから、アクティブ・ラーニングなんて言葉が気持ち悪いのは説明するまでもない。
主体的な問いのない、つまりは、何を考えようとする意識が欠如したまま、立場を鮮明にすると、賛成反対の旗だけを問題にし、自らの立場を擁護する弁明に終始する。そんなものは、議論とは呼ばないのだ。
では、なぜ、この問いが発生しないのか。そこには、それぞれに経験的に積み上げられ判断されていくべきそれぞれに固有の価値基準がどこかにかすめ取られているのではないかと考えている。
価値基準は経験的に積み上がるものだ。
ある会話の中で、ある旅行で15万円の宿に泊まってきたと話した人がいて、なるほど、そうやって金額で示さないとその価値を表現できない場合があることに気づいた。有名老舗旅館に宿泊したのならそのような表現をすればいいわけだし、そこで得られた感じ方を自分なりに表現し、15万円の妥当性を話せばいいわけだが、それを藪から棒に15万円を表現することで、その金額の差異にしか価値を持てなかったのではないかとさえ思えてしまうのだ。
こうしたことは、ランキングが好きな人にも言える。自分の中の価値を見極めることが難しく、つい外在的な価値基準を援用してしまう。自分の価値に凝り固まって他の価値基準を寄せ付けない人は迷惑だが、その考え方や判断には基準があるだけ、相入れるかどうかの段階は生じるものの、自身の基準と対称化すればいい。
こうした心象形成がどうしてなされたのか。一時、ほめて育てるということがしきりに言われた。できないことをいくら口説いてもだめだ、自尊感情を高めるためにもほめて育てるのだというのだ。この頃では聞かなくなった。そのことが認知された結果とも考えられるが、実は、奇妙な形で潜行してしまったのではないかとも懸念している。
ほめるのではなくおだてる、体験の中から成功体験だけを設定していく。そういうことを繰り返して、自己評価が曖昧になってしまったゆえに、過剰な自尊心と不合理な自信に支配された人を多く見るようになった。それが挫かれると激しく落ち込んだり、人に攻撃性を示したり、浮き沈みが激しい。白黒だけで、そのことに感情を大きく揺らしてしまうのだ。
実は、政治がそうした意図を持ち始めていないか、ずいぶん、気になる。わかりやすさの影に複雑な問いかけ、市民がみんなで民主的な手続きで組み上げていくべき議論を遠ざけたままで、わかりやすい方向に、単純化し、幼稚で稚拙な結論を示してその賛否を問う。
そうでなければいいのだが。