宅間死刑囚死刑執行

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040914-00000068-kyodo-soci
判決が昨年の今頃。約1年で死刑執行。これが「異例の早さ」というから、ほかはどのくらいかかっているのだろう。人を裁き、理由はともあれ、人の命を国家の権力で奪うのである。国家の権力とはかっこうのいい言い方だけど、映画「グリーンマイル」でもあったけど、リアルな個人の個体の死である。しかも、意図的な「死」であり、事件としておきた「死」でさえ、その期日や「死」の判定までには猶予があるのに、それを決めてしまって、徹底して殺してしまうのだ。躊躇は、たとえ、権力を持っていても当然と思う。
死刑廃止に関してはさまざまな議論がある。
権力による「殺人」を制度的に持つことの疑問、犠牲者への贖罪の在り方、人の命の在り方も含めて、こういうときにこそ哲学の出番だろうと思うが、多くの哲学者は、「哲学」という知の体系の整理者で、自らが哲学することなくこうしたときにも議論を整理するだけで、自らのことばと省察から逃れてしまっている。
7月に高校生と議論したときに同じことを感じた。よく知っていること、よく整理できることが素晴らしいことであって、ことばを生み出す、生み出しながら表現し考えることとそれをそのようなものとして受け止め自らの思考に反映すること。議論の基本中の基本ができていない。
「わからないことを話すな」と言った子がいる。
わからないことだから話すのだ。その態度を教育、いや、学校現場がスポイルしている可能性はないか。ディベートのような「ごっこ」で喜んでいるようでは、いよいよその感も深い。駅前で酒飲んで叫んでいるおっさんの方がよほど、世界を把握している。