あるケースワークで

会議で、あるケースを検討していたら、学校時代の自分を思いだした。
小学校低学年の記憶は、「スミオちゃん籠城事件」のみ。
中学年の記憶は、ほぼ、ない。石炭の「湯口方式」でのくべ方くらいか。
高学年の記憶は、たぶん、抑圧したのだろう、ない。小学校の中庭の楽焼き小屋で焼き上がった器の透明感が強烈に残っている。そのほかは、たぶん、どこかにやってしまったのだ。
ふとしたことで、「6年3組の裏切り者」と呼ばれてしまった。いや、本当に6年3組にいた連中はそうは呼ばない。そのことが、ボクをきっかけに露呈したことを、むしろ、そのことで止めることができたように考えている人も少なくない。ボクとてその行為は善意ではなかった。偶然である。その空気が伝わるわけでもなく、ボクはやがて図書館に引きこもるような、校舎の廊下の端で山を眺めるような、そんな少年になった。
沸き立つような気持ちもないし、激しく脈打つ身体もない。運動音痴で、どことなく体にコンプレックスをもっていたボクには、そんな場所がお似合いに思えた。音楽や本。機械もかな。そんなものがボクの傍らにあった。
ボクはどこにいたのだろう。
そう思えて、涙が出そうになった。
友達と歓声を上げたことなど、本当にあったのだろうか。その仲間たちと何かを成し遂げたい思いなどあったのだろうか。学校に行きたいと思ったことなど、何回あっただろう。悩みはあった。しかし、その悩みは不安に根ざしており、善くあろうとするものとの距離感から生じるものではなかった。
不幸にして、そんなボクの心情は、中学になってもますますいよいよ癒えることなく、茫漠とした疎外感だけを漂わせたまま、育っていった。笑ったことなど、あったのだろうか。