市町村合併

明日、富山県で2つの市が生まれる。昨日も全国でいくつかの合併市町が生まれていた。いよいよ平成の大合併もアメをいただける最後のチャンスが半年後に迫った。そういうこともあってか、この秋の各地の運動会では「最後の住民運動会」が盛んに開催された。これがどうにもおかしい。合併合併と大騒ぎした挙げ句、この町がなくなるとメランコリックに、そして、ヒステリックに叫び始める。合併までの道筋を必死に辿った結果、そこから先のイマジネーションに欠いていた現実をもろ出ししている。
呉智英的な言いぐさになるが、ふるさとがなくなるといった類のレトリックはすべて排除せよ。そんなものは的確でも正確でも、そして、扇情的ですらない誤りである。たかが行政区分の統合である。自分の住んでいる場所がなくなるわけではないのだ。
例えば、明日「射水市」が発足するが、これで柳沢敦の出身地は、射水市になるが、出身地がなくなるわけではない。呼び名が変わるだけだ。ちょっとマイナーだが、小林健太がKENTAになるくらいのことで、質的変貌もあるのだろうが、本人は本人。たったそれだけのことを感傷的にぎゃあぎゃあ言い立てることにこそどこかおかしい。
しかし、地名が失われるのは惜しい。
新市名にこだわって合併をご破算にしてしまった隣町だが、じつは昭和の合併では、「膳」の字を「善」として町の名前にして妥協を図った経緯がある。音を同じにして、表記も変化を小さくして何とか体裁を保ったわけだ。その後、市街地にあったいくつかの細かい町名を捨て、○区として処理統合してしまったこともある。
一方、ボクが住んでいる町はやけに複雑だ。ボクが住んでいる場所は地区名、町内名、登記上の地名は全部違う。いずれも慣例をそのまま使っているわけだが、ややこしいが経緯がよくわかる。わかりにくいが、歴史的にはわかりやすいというややこしさ。特に登記上の名前はおもしろい。うちは違うのだが、「金管」という地名がたくさん出てきていて何と読むのかさえわからない。「きんくだ」、「きんかん」、「かなすが」いろいろ読める。成立の経緯からすると、最後のものだろう。「金森家」と「大菅家」がほぼこの町を支配していて、それがモザイク状に展開するので、隣同士で地名がころころ変わっては面倒だというので、その地名をこしらえたというのだ。東金管、西金管などもある。それも残っているのでこういう想像もできておもしろいわけだ。もしかすると今生まれた地名もそうやって伝統として残る可能性もなくはないが、最近の子どもの名前のようなものでそのときだけなんだか凝ってはみたものの後からになると何だかなあということにもなりかねない。ほら、「せな」という名前を付けた人、ひと頃、多かったでしょ。あれ、名字だよね。
さて、想像力のなさといえば、新幹線もそうだ。
富山駅富山県内の3つの駅で唯一現在の駅舎に乗り入れる。県庁所在地の駅にそのまま乗り入れるのだが、ほかに優良な土地もなく、駅前は最も地価の高い場所で、駅周辺もそれゆえ開発の速度が郊外よりもスローダウンする。高架橋を造る、地下道を造る、拡幅する、そんなことすべてにストレスがかかっている。そこに、新幹線を引くのだ。用地買収、工事、開通した後の騒音。そういうものを背負ってやろうという覚悟があるようには見えないのだ。富山県一の密集地帯を横切るのである。当然、用地交渉は厳しく、同時に、ぎりぎりで建設するはずなので、住宅の目の前を新幹線が走るのだ。ゆっくり走れば当然今でさえあやしい時間短縮効果がいよいよ薄れる。そんなことも想像できずに新幹線ができるとディズニーランドが近くなると言っているような若者がいるのだから若年層が痴呆化しているんじゃないかという乱暴な意見にも首肯する。
市町村合併に戻ると、合併したのに旧町名を平気で使い、そこに資金が流れてこないと文句を言うような人は、最初から合併議論に混ぜるべきではなかったと思うね。