デパート

昨日、久しぶりにデパートに行った。開店直後だったので、きれいなお姉さんが浴衣姿で出迎えてくれる。少々はにかんでしまう。背の高い売り子さんが多くなったなあと思う。20年前よりも5センチは高いだろう。と思うのは、少々違っていて、きっと姿勢がよくなったんだろうね。
中心商店街の活性化とかいうことで、駐車場が無料。わりに呑気に歩き回る。歩いての買い物は気持ちがいい。見えるものが増えてくる。ああ、こんなのもあるんだと、若い人のお店を覗いて感嘆。年取った証拠だな。
この商店街も、西武デパートが撤退して人の流れが変わった。それでも老舗のデパートには年輩の女性を中心に人がたくさん流れている。ふと、巣鴨と原宿と思いついて、代官山を想起した。
どんなことかというと、こういう地方都市が六本木ヒルズを目指して破綻していく様子は、どこにも珍しいことではない。小さな東京を目指すのが、戦後から20世紀の終わりまで続いてきた都市モデルだとすれば、東京に混在する根津の姿を同居させていく生活都市東京をどのように取り込めるかが今後の都市モデルになると思う。なのに、中心市街地活性化とかいうときに、どうしてもヒルズのような発展を想定してしまう。東京に幾たびに、ボクが育った30年代の路地がそこかしこに残っていることに驚いてしまう。地方都市があっさりと駆逐してしまった生活空間だ。ハレの都市ではなく、ケの空間、そこにいくばくかのハレが紛れ込みアクセントになるような町づくり。そこには、充実、充足が似合う。発展、成長の物語は、社会構造の変化を強いられる。
そんなことを考えて、うちのおまつりに行く。相変わらずなのは、夜店を出歩く中学生の制服姿。ハレの場とケの装いをうまく整理し切らぬ違和感。その様式で許されることと、縛られることを、教師も生徒も割り切れない。そして、寂れゆく夜店の姿。まつりの心だけが記号のように季節に節目を付けて、また、今年も終わっていった。
デパートで万年筆の試し書きをする。こういう場所にしか味わえない贅沢感。それを傍らに置くことは、必ずしも必要ではない。