野営のブルース@フライの雑誌74号

先週、「フライの雑誌」74号が届いた。
特集の「野営のブルース」がおもしろかった。釣りとキャンプではなく、釣りと野営がテーマである。「キャンプ」は一種の教育活動のことだから(それで、野球の合宿練習を「キャンプ」と言います)、ここでは野宿でもいいのかもしれないが、広義のキャンプも含めて「野営」と表現したあたりがセンスである。それにブルースが付いている理由はわからないが、嫌いじゃない。ジャズではだめなんだ。ブルースというのは音楽の一ジャンルではなく、ブルースという状態を指しているんだろうな、きっと。
ボク自身は、野営なんぞしなくても暗くなるまで釣っていられるような場所に住んでいるし、遠征もしないので、釣りと野営が結び付かない。しかし、野営は好きである。
今月の始めの野営はよかった。子どもたちの自然体験活動に付き合って守に泊まったが、小さめのテントでソロ泊にしてみた。森の息づかいがとてもよくって、久しぶりに恐怖感まで味わった。雪や森からもらうこの「畏れ」が何ともいいのだ。原初的な体験はどうやら心身をリセットする効用があるらしい。朝は夜明け前から起きだして、だんだん森が明るく寝静まっていく時間を楽しむ。木々は目を醒まして、樹皮が暖かく、葉は背伸びするように広がり始めるのだ。朝、最初に差し込んだ光で温めた水を口に含む。これで目の前に川があったらと思うが、こんなに心静かにおくまい。これはこのくらいがいい。辻まことを思い出すな。「釣りはするけど、釣り師じゃない」、ってね。川がないとそんな気分になれるが、目の前に具合のよい淵でもあると、そうはいかない。ボクはまだ、「釣りはするけど漁師じゃない」くらいだな。
いろんな野営の味わいが描かれているのだけれども、一人だったり、仲間といっしょだったり、簡素にして至極の味わいから、豊かで肌理の細かい遊びもある。どうやらそれらは釣りのスタイルによって異なるらしい。
釣りは一人遊びだと思っていて、仲間に釣り場で会うことは多いけれども、仲間とともに釣りをすることは少ないボクには、野営だってそんな感じだ。それで自然道具立てもそれに見合ったものになっていて、だれかも書いていたが、コールマンなんて滅相もないという状態。そのあたりの道具への感覚で、微妙に違いが見えるような気がした。コールマンなんて1個も持っていないし、あんな前線基地に設えるようなものなんて、ホームセンターで売っているようなものなんて、と思ってしまうボクが異端なのかな。今回の特集記事に、ボクのまわりにあんなに溢れているEPIも、プリムスも出てこないのがまた不思議。今はいいものがたくさんあって、釣りベストに収納できるストーブがある。でも、それは、ボクらのそこらの川でちょいと遊んでくるっていう、江戸のそば屋のたぐり感覚で、食事と結び付くもので、腹減らしてからバイキングに行く周到でしたたかなものではない。
もし、釣りで泊まるなら、沢がいい。谷間の深い闇で、その深さを畏れつつモルトを舐めるのだ。もちろん、ストーブはコールマンではいけない。できれば、宮沢賢治のように新聞紙とチョコレイト1枚で山に入る。フライボックスだけは、全部持っていく。これだけは、どうにも後悔したくない。
中部のキャンプ場が紹介されていたが、現高山市、旧朝日村のカクレハ高原キャンプ場へ10月に行ったことがある。むろん、禁漁だったが、川を埋め尽くした岩魚と絵の中に入ってしまったような風景に感激すると同時に、熊の恐怖にパーコレーターの珈琲もそこそこに帰ってきた記憶がある。あんなところにそのままソロキャンプするといいだろうなあ。釣りはすぐに飽きそうだが。いや、意外に手強いか。