仲間のかけら

前の職場の仕事仲間と以前の勤務地で飲むことになった。こういう声がかかること自体に感謝。上司に告げて仕事を途中で切り上げて電車に乗った。
通勤時間帯の電車に乗るのは久しぶりだ。携帯プレーヤーは、コルトレーンにしておいた。ドルフィーとのコンボである。何だか、そうしたいと思った。自分のなかにしまい込んだ何かを思い出そうというのだろうか。
最近、仕事場でも少し周りの目が変わってきたと感じている。ボク自身の影響力が拡大していく中で、ボクの仕事の質を良くも悪くも認めてもらっているのだろう。
もっとも、ボクの領分に関することをほかの人に相談されていたときには、少々がっかりしたが。話しかけにくいのだろうか。そうかも知れないな。こうしたいという意志のない相談は、「決めてから相談してね」と優しい言い方で厳しく突っ返しているから。案を何も持たないで相談するなどということはあり得ないと、特にこの業務になってからは思っている。どんな些細な形でも、案を示せ、そういつも言っているし、ボク自身の案に不服や意見があればいつでもそのように話せとも言うのだが、どうしたものか、そうはならない。このエリアの職場は割りにそうなんだよと、高校の同級生でもある同僚にパドックの話として教えてもらった。コンサバというよりは、体質そのものが違う。
上越教育大学の新井先生がどこかで書いておられたな。学校社会ということばがあって、学校が社会の規範を形成する文化的な役割を果たしているという考え方があって、そうしたものを生涯学習に敷衍するには、学校そのものに学校社会がちゃんと形成されている必要があるといったことだったか。学校に社会という文化的な組織が有効に機能しているかどうかを問うている文章だと感じた。今、学力云々で個のチカラをどうするのかとしきりに言われているが、学校の社会としての形をないがしろにしたり、評価の枠外にしてしまうような現在の教育議論には、やはり、少々疑問符を付けたくもなる。
そうした指摘を他山の石として、職種は違っても、この職場にも文化があるのかどうかを考えておきたい。
そういう日頃の背景もあって、組織的にしっかりとしていた場所での仕事を思い出す、そんな行為になったのか。
駅に着くと、隣に座っていた子が声をかけてきた。やあ、久しぶり。いっしょに会場に行く。相棒は、忙しいので、きっとなかなか出てこられないだろうと思い、当時つながりの深かったIさんが来たら始めようと思っていたところが、ひょいと相棒が顔を出した。
それからは止め処なく話をし、おいしい泡盛をいただいた。
2軒行った。前だったら明日もまた、同じように話のできる仲間だった。何だか、また、しばらく会えないのが急に寂しく思えた。ミスドでコーヒーを飲みながら、地球が甚だしく回っていた。首がいつもより力無く支えきれないのか、痛めている場所がちりちりする。
終電に乗ると、また、知り合いがいた。野球関係のつながりだが、職場関係でも縁があった。息子の話をする。ひと駅ひと駅と離れていく。家に近づく。また、とみんなが離れていく。また、ボクだけ終点か。
駅を降りると、目の前に素敵な女性が足下をふらつかせている。化粧品会社の指導員をしている後輩。彼女も飲んできたんだなと少しだけボクも腰を伸ばしたら、Yさん。親戚で、職場の縁もあり、いろんなことを話せる先輩でもある。迎えに来ていた女房の車に乗せる。彼の自宅までちょっとだけ話す。
家に戻ると、いろんな話が渦巻いて、最近になく、いい夢をたくさん見た。思い出すと仲間のかけらがいっぱい詰まった夢だった。