駅前はあったかい

25年も前になる。
ボクのホームゲレンデは、白馬岩岳スキー場で、定宿は信濃森上駅前の「いなば館」であった。宿のお父さんが学校の先生だったとかで、何でもそんなつながりでもあったのか、当時、スキーの普及に大きな力を果たしていた先生たちが多かったスキークラブの定宿であり、それに連れられてそのまま定宿にしていた。
民宿である。客が多ければ、納屋の二階や倉庫の二階にも人を入れる。ときには、もしかすると娘さんの部屋ではないかと思えるような部屋もあった。何となくいい香りがして、ざわざわとした気分になった。
同好会スキーの頂点である学生選手権の会場であったこともあってアルバイト学生も多く、彼らが持ち込んだエロ週刊誌のおこぼれに預かることもあり、また、宿の向かいは酒屋でその二回には、アルテックの大きなスピーカーが置かれ、フュージョンを奏でていた。
難があるとすればスキー場から離れており、大人はタクシーで、金のないボクらはスキーを担いで30分ほどかけてスキー場にいかなくてはならないことか。もとより毎週山のスキー場へ2時間ほども歩いていたボクらにはどうってことない距離で、むしろ、青白い薄暮のたんぼ道を滑走する帰り道が楽しみですらあった。
帰ってくると、よく冷えた白菜の漬け物と、甘さの具合が実に見事なぜんざいをいただける。これは、うどんに替えることもできるようになっていて、実に満足できる味わいを得られるのである。食事も、米びつにいっぱいと、鍋にいっぱいのおみそ汁をお代わりし放題であった。大人にはビールが付き、2人で大瓶1本なのだが、庭を埋め尽くした雪のなかから引き出してきたビールは脳味噌が驚くほど冷たかった。
高校生くらいになると、わざわざ乾燥室の二階部屋を所望し、密かに抜け出しては焼酎を買い込んだ。トリスのこともあったし、大人に見られると何だか何なので、オレンジジュースやトマトジュースで割り、偽装していたが、今にして思えば、スクリュードライバーやブラッディマリーである。そこらに、ボクの嗜好の原点を探せそうだ。
白馬の雪は、北陸の雪ではなく、いくぶん内陸の軽さを帯びている。隣村の小谷は日本海側とよく似た雪が降るが、森上の駅前は日が明るいのに雪が降っている感じがする。山はともかく、里では吹雪かれた記憶がないのだ。
ある日、少し長逗留をしたスキーの帰途、腹が減ったと森上の駅前の白樺食堂に入った。その名の通り白樺を調度にした食堂だが、如何にも流行らない、バブルの夜明け前にはおよそ似つかわしくない店で、ボクらも少々後込みしながら中に入った。店の中にまで白樺が生えていて、狭い店内はいよいよ狭っくるしい。給仕のおばさんが白樺を避けるように歩いているのが如何にも不合理で、それが失笑のいい味を出していた。その後、ボクの妻になる子がうどんか、そばを頼み、その頃、そばを苦手としていたボクは味噌ラーメンを注文し、その量の非尋常さに面食らうのだが、やがて、白樺食堂を出たボクらを3月の、やがて暮れゆこうとする一日の残照が照らす。そのとき、風花が舞った。美しく、軽く、切なく、間もなくやってくる新しい生活へ、自分の気持ちを切り替えられた瞬間だった。
ボクも大学生になるんだという思いと、彼女といっしょになろうと、いつまでもこうやってすごすんだという意志と言うには少し見通しもなく、決意もないが、そんなまなざしを空に向けた。80年代の始めのころの光景だ。